一人称、二人称、三人称
小説の書き方において一番分類しやすいものといえば、やはり『地の文の立ち位置』でしょう。つまりは『一人称小説』なのか『三人称小説』なのか、はたまた『二人称小説』なのか
『最近のラノベには一人称が多い』という記事をいくつか拝読しました。しかしながら実際のところどうでしょうか。そもそもラノベだから多いのか、それとも全体的に多くなっているのか。それぞれの人称視点の利点などから、色々と見てみたいと思います。
※本記事は16年8月14日に公開し、17年10月29日に大幅修正されています
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大前提として
まず結論を申し上げますと、なろう系の刊行が増えたことにより一人称小説が増加したように見えて、実際のところは行っても半々……いや、全体の三割から四割程度ではないでしょうか。
勿論『なろう系=一人称』というわけではありませんから実は増えたという現象そのものがただの錯覚という可能性もあります。というわけで、冊数的には少ないですがこれまで当館で取り上げたラノベ、最近かどうかは置いておいて、読んだことがあるラノベを、それぞれ人称ごとに区分してみたいと思います。
- 一人称視点(順不同)
- 風見夜子の死体見聞
- 三輪ケイトの秘密の暗号表
- その10文字を、僕は忘れない
- 尾木花詩希は褪せたセカイで心霊を視る
- 白翼のポラリス
- 魔術学園領域の拳王
- リンドウにさよならを
- 狂気の沙汰もアイ次第
- オリンポスの郵便ポスト
- わたしの魔術コンサルタント
- おはよう、愚か者。おやすみ、ボクの世界
- 読者と主人公と二人のこれから
- 水木しげ子さんと結ばれました
- 0.2ルクスの魔法の下で
- 小説の神様
- 道然寺さんの双子探偵
- “文学少女”シリーズ
- 古典部シリーズ
- 物語シリーズ
- 二人称視点
- 図書迷宮
- 三人称視点(順不同)
- ハナシマさん
- 妖姫のおとむらい
- ギャンブル・ウィッチ・キングダム
- フィクション・ブレイカーズ
- 月とうさぎのフォークロア。
- 湯屋の怪異とカラクリ奇譚
- トリア・ルーセントが人間になるまで
- いつかの空、君との魔法
- インスタント・ビジョン
- 追伸 ソラゴトに微笑んだ君へ
- クロバンス戦記 ブラッディ・ビスカラ
- ミス・アンダーソンの安穏なる日々
- 賭博師は祈らない
- ウィッチハント・カーテンコール
- 戦うパン屋と機械仕掛けの看板娘
- 楽園への清く正しき道程
- 吸血鬼になったキミは永遠の愛をはじめる
- ヒカルが地球にいころ……
- Missing
- 時槻風乃と黒い童話の夜
- 霊感少女は箱の中
- 86 -エイティシックス-
勿論これが私が読んだものの全てではありませんし、直近で刊行されたラノベ全てのデータを取ったわけではありません。
しかしながらそれらのデータを揃えたとして、果たして何かの役に立つのかというと……正直、何の役にも立たないかと思います。一人称がどうとか、三人称がどうとかは結局のところ何に重きを置くかとか、書き手の得手不得手とかによって違ってきますし、多いからどうだと言えるようなものではありませんから。
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人称視点ごとの得手不得手
では、それぞれの人称視点において重視されるものは何なのか。一つ一つ見ていきたいと思います。
CASE1:一人称視点
一人称視点とは地の文に語り手が存在する場合。この場合語り手がほぼ主人公的な扱いになりますので、『一人称=主人公視点』と考えてもいいかと思います。これによるメリットとデメリットとは。
まずメリットですが、これは他のものに比べて心理描写を重視したいときに圧倒的に有利になります。一人称視点における地の文とはつまり語り手の心理や、語り手が見た風景なのですから言うまでもありません。
かといって必ずしも三人称視点が心理描写に向いていないというわけではなく、語り手に対する心理描写という点においては、三人称よりも有利に働くというだけの話。
ではデメリットは。一人称視点では必然的に一人乃至二人にその視点を固定しなければならず、また語り手がエスパーでもない限りは他人の心理描写には厳しい制限がかかる。また、語り手が知り得ない出来事は読者も知る由がありません。
CASE2:三人称視点
二人称は一旦飛ばして、次は三人称視点について。こちらの場合は一人称視点と比べると内面的な描写には向かず、むしろ複数の主人公からなる群像劇などの作品に向いているかと思われます。
かといって先述の通り心理描写をしてはならないなどというルールは存在しません。ですが三人称視点において心理描写を行う場合、一人称視点以上に誰に焦点を当てているのか気をつけないと混乱を来す恐れがあります。
さっきまでAの内面を描いていたのに突然Bの内面の話になったら、果たして読者にとってそれは分かりやすい文章でしょうか。三人称視点におけるデメリットは、そこでしょう。
また、厳密な三人称視点となると、登場人物の心理は直接的に描写せず、風景や匂いの描写をもってその人物の内面を暗喩的に描くことになります。技術的にはかなりの高さを要求される点も、ある意味ではデメリットと言えるかもしれません。
CASE3:二人称視点
二人称小説というのは全体としてそもそもそれほど多くないでしょう。そもそも二人称小説って何よって人も少なくないかと思います。
地の文において『あなた』や『君』を用いて語られる物語……あれ、それって一人称小説とどう違うの? そう想う方もいらっしゃるでしょう。私だってそれについては明確に区別できているわけではありません。ただ、語り手が何かしら能動的に行動したり思考したりすることがないものが二人称小説であると、そういう認識をしています。
一番とっつきやすい例えが、TRPGにおけるゲームマスター(COCにおけるキーパー)でしょうか。GMは物語を直接動かす立場にはないが、世界全体を見渡す目を持ち、登場人物達の行動を描写することができる。一見してそこに存在する人物のように見えて、登場人物の誰からも認識されていない……まあ、神様みたいな立場ですか。
これについては私自身ほとんど読んだことがないのでなんとも言い難いのですが、少なくともデメリットに関しては明確です。
二人称であるということは、読み手が主人公であるように描写することになるわけで。つまり読み手がその主人公に同調できなかった場合、物語を楽しめないという最悪の事態が発生します。それを如何に防ぎつつ読み手の心に響く物語を描けるか……厳密な三人称視点で描くことよりも難易度は高いでしょう。
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結局は物語次第
色々と書きましたが、結局のところ最初に申し上げましたとおり、視点はどういった物語を描くかによって変化するものであり、一人称小説が多いからどうだとか言えるものではありません。
それに、三人称視点であっても一人の主人公に焦点を絞って描く一人称的三人称小説や、一人称視点だけど章で区切って語り手を変え、それをギミックとして使用するタイプの叙述トリックなど、小説の形態は千差万別。
物量について議論することそのものが不毛であると、私は思うわけです。