無銘図書館

古代魔術院附属第一図書館・第二話

 藤崎綾音の朝は早い。日も明けやらぬ頃に目を覚まし、朝食を作りがてら身体をほぐし、充分な量の食事を摂ってから住居である三階建ての職員宿舎の周辺をランニング。戻ってからシャワーで汗を洗い流し、七時頃には赤い二輪の愛車にまたがって出勤する。彼女が住む宿舎が図書館から特別遠いということはなかったが、要するにそれが彼女のルーチンワークであり、一日を無難に過ごすための術なのだった。  本来、綾音は朝に弱い。それ故に完全な覚醒にはそれなりの時間を要するし、十全な睡眠が取れなかったときなどは惨憺たるものだ。それを避けるためのあえての早起きであり、それを習慣化するために、綾音の就寝時間はどれだけ遅くとも日付が変わる前というのが常である。  所要時間にして十分。附属図書館の職員用駐車場の一番奥、ほとんど綾音専用といっていい駐輪スペースにバイクを駐めた彼女は、普段通りに通用口の端末にカードキーをかざした。程なくしてロックが解除され、パラーディオ様式の外観に似合わぬ鋼鉄製の自動ドアが音もなく開く。  扉の向こうに広がる仄暗い通路に足を踏み入れた途端、周辺がにわかに明るくなり、通路の向こうにある別の扉があらわになった。背中に扉が閉まる音と再度ロックがかかる音を聞きながらそこに進み、今度はまた別のカードキーでその扉を開く。厳重に強化された警備体制からくる手間を面倒と思わない綾音ではなかったが、慣れてしまった後ではそれ以上何らかの感想を抱くこともなく、何事もなかったかのように扉をくぐった。  除湿器を手早く確認し、館内の照明を一つずつ立ち上げる。各所に配された端末を遠隔で起動しそのまま簡易エラーチェックを開始。その間に更衣室に入り着替えをすませる頃にはエラーチェックも滞りなく終わり、一息つこうと給湯室に入りかけたときだった。 「……何やってんの?」  その入り口のすぐ近く、後ほんの少し手を伸ばせばドアにたどり着けそうな場所に、彼女がよく知る人物が俯せに寝転がっていた。  いくら掃除が行き届いているとはいえ、自分ならこんなところで、しかも髪を扇に広げて寝ることなんて出来ないなどと思いつつ、しかしいくら彼女とて果たして早々出来るだろうかと、余計に増した怪訝さをその目に表した。  少女は動かない。声にも目線にも気づくそぶりすらなく、そのまま突っ伏してじっとしている。まさか本当に寝てしまっているのかといくらか心配になった綾音は、少女のそばまで歩み寄り、ゆっくりと跪いた。 「ナナ?」  軽く肩を揺さぶってみても微動だにせず、その体温も妙に低い。とはいえこれは少女の平熱が随分と低いことに起因するものであり、それを知る綾音はその点には注意を払わず、もう一度だけ、今度は少し強めに呼びかけた。 「起きなさい。風邪引くわよ」  ようやくもってその声が聞こえたのか、少女の腕が痙攣するように震える。そのままのそのそと顔を起こすと、普段からして色の少ない、ともすれば眠たげに見える目が、いっそうその気を強くして綾音を捉えた。 「……おあようございます、はやねさん」 「確かに早寝だけどそんな風に呼ばれる謂われはない」  寝起きで呂律が回らないのだろうと思いながら、そうつっこまずにはいられない綾音だった。 「いえ、今のは簡単なアナグラムです。お『あ』ようございます、『は』やねさん」 「……分かったからさっさと起きなさい」  だというのにそんなことを言い出すナナに、綾音の口から今日最初のため息が漏れる。  一音だけの入れ替えをアナグラムと呼んでいいのかはさておき、どうやら別に呂律が回っていないわけではなく、単純に、良くも悪くもいつものナナということらしかった。    時刻も八時に近づき、外には学生の姿がちらほらと見える中、給湯室でカップラーメンをすするナナは、まだどこかぼんやりとした目をしていた。 「泊まり込むのはいいけど、食事くらいちゃんと摂りなさいよ」  その後ろで、手っ取り早くインスタントの紅茶を煎れた綾音がぽつり漏らす。その言葉には説得や説教というよりも、どこか諦めのような気配がこれ見よがしに漂っていた。  何も今日が初めてのことではない。作業なり読み物なりで職員が泊まり込むという事態そのものも珍しいことではないし、どこかしらのテーブルなりソファなりで眠りにつくナナを見たことがないわけでもない。廊下というのはいささか論外ではあるものの、それよりも何よりも、綾音は一人の友人として、この少女の不摂生さが気になっていた。 「司さんにも以前申し上げましたが、私としましては食べることよりも読むことの方が重要なのでして」 「いやあんたが本の虫ってのは知ってるけど……って、なんで尾瀬倉?」  思いがけず飛び出た同僚の名に、はて二人に接点があっただろうかと思案する綾音。確かに談笑、とまではいかずとも会話をしている姿は見かけたことはあるが――  自身と彼との接点ならば、わざわざ探さずともいくらか出てくる。同郷の、それも同じ高校を同じクラスで卒業したいわば学友であり、何の因果か互いに進路はマナ・アカデミー。しかも就職先が同じ図書館とあっては、綾音自身としては腐れ縁と思ってもいいのではと考えられる間柄である。  と、そこまで考え、ようやく彼女は思い至った。 「ああ、あんたら飛び級組だったわね」  二年生終了時点において規定の単位、あるいはそれを補えるほどの特異な才があった場合に適用される飛び級制度。ナナは前者、彼は後者の理由により二年間を一気に飛び抜かし、そのまま図書館に籍を移したのだった。 「はい……ん……ふう。入学時点で飛び級確定の彼と一括りにされるのは、どうにもこそばゆい気分ではありますが、司さんには色々と懇意にしていただいています」  カップラーメンのスープを飲み尽くしたナナが珍しくはにかんだように見えて、おやと極々小さく首をかしげる綾音。見間違いでないとしたら、これは――好奇心から追求してみたくもあったが、ひとまず彼女はその思いにふたをして、それとは別に沸いた疑問を口にした。 「あいつそんなにすごいの? いや、確かにあの検索能力はすごいとは思うけど」 「すごいといいますか……綾音さん、ご存じないのですか?」  問うたはずが逆に尋ねられ、先程とは別の意味で首をかしげる。まるで何故知らないのかという風な物言いに一瞬また考え込んだものの、ちょっとやそっとでは答えは出てきそうにはなかった。 「いや、これといって」 「なるほど。まあ、それならそれで構いませんが」  ナナにしては珍しい率直で簡素な答え。つい三十分ほど前に『ああ、今日もいつものナナだ』と思ったばかりだというのに、どうにも調子が狂う綾音だった。 「それはそれとして。それなら尾瀬倉にご飯作ってもらえば?」  綾音の記憶通りであれば、彼は一人暮らしで自炊もする人間だったはずだ。仲がよいというのであれば、それが一番早い解決方法に思えた。無論彼自身の承諾も必要だろうが、意見を提示するくらいならさして害はないだろうと、残った紅茶を飲み干す綾音。 「……なるほど、そういう手段もあるということですか」  先程までとはまた変わり、今度は普段通り感情の見えないナナが目の前に現れる。そのことに知らずほっとしつつ、綾音の頭には何故か妙な引っかかりが生まれていた。  意見を出すだけなら無害のはず。そう自分自身で断じたばかりだというのに、自分はもしかすると変なスイッチを押してしまったのかも知れない。大きな理由もなくそんな不安が、綾音の足下から這い上がってきた。   「突然ですが司さん。私をお嫁さんにもらってください」  午前の業務が終わるその直前にそんな言葉を聞いたのは、果たして悪い予感が的中してしまったからなのだろうか。背中に聞いたあまりにも突拍子な声に、綾音は首の骨が折れるかと思うほどに勢いよろしくうなだれた。 「……は?」  誰が聞いたところでそう答えるしかないだろう。何とも間の抜けた声は綾音の後ろの席で背中合わせに端末を叩いていた尾瀬倉司のものであり、直後にその方向から視線が突き刺さってくるのを綾音は感じ取った。 「おい、藤崎」 「私に振るな」  振られても正直困る。一瞬のうちに一日分の疲れをため込んだような気分で綾音が答えると、今度はまた、やはり起伏の少ない声が司の耳に、そして綾音の背中に届く。 「今朝方、綾音さんに不摂生を注意されまして。その解消のためにも司さんに嫁いでご飯を作ってもらうようにとご指導いただきました」 「誰が嫁に行けっていったのよ」  どこをどうねじ曲げればそういう結論に至るのか。不摂生を注意したのは間違いないし彼に食事を用立ててもらえばと提案したのも確かだが、誰も嫁げとまではいっていない。むしろ食事を作ってもらうだけのことで何故そういう考えが浮かぶのかと、綾音はナナの頭を徹底的に解析してみたくなった。 「あー、つまり栄養かたよりがちなこいつに飯を作ってやれと」 「うん。こいついつも煎餅ばっかだし、それってご飯とはいえないじゃない。流石に放っておけないかなってさ」  そういって振り返った綾音の目に映ったのは、いつになく真剣な顔立ちでなにやら物思いにふける司の姿だった。見ようによっては機嫌が悪そうにも見える潜められた眉に、やはり無理な要求だっただろうかと今度は少し遠慮気味に口を開く。 「勿論、あんたが嫌っていうんなら強要はしないけど」 「あ、いや。別段飯作るくらいやぶさかではないんだが」  では何が問題なのかとしばらく眺めていると、不意に頬杖をつき、綾音を半目でにらみ返してくる司。ともすればため息すら漏らしそうな雰囲気に彼女が一瞬気圧されると、彼はぽつりと、呆れたようにつぶやいたのだった。 「お前、まだ料理できねぇのかよ」   「適当に座っててくれ」  司の住居は図書館から徒歩二十分とかからない場所にある。基本的な作りは綾音が住む宿舎と変わらないそこにナナを伴って帰宅した司は、振り返ることなくそういうや、キッチンへと向かった。 「思っていたよりも、というか、全く散らかっていませんね」  部屋の中程に置かれた大きめのソファに腰をかけながらそうつぶやくナナ。  ソファの後方、いくらかのスペースを挟んだところには対面式キッチンのカウンターも兼ねたダイニングテーブルが、正面にはローテーブルが置かれ、その向こう側の壁には大きめのテレビがはめ込まれている。ソファから首を巡らせれば右側にはPCデスクとその上に銀のデスクノートが鎮座し、その横に置かれた大容量の本棚には、様々な本がひしめき合って居並んでいた。 「昨日掃除したばっかだからな。ほれ」  キッチンから出てきた司の手には、見るからによく冷えた茶が注がれたコップが握られていた。その一方をナナに渡しながら、司もソファに腰を下ろす。 「殿方のお部屋というものは、もっとこう雑然としたものとばかり思っていました」  それで喉を潤すナナは、ぱっと見普段通りの無表情で無感動なままである。いつも眠たげな目は今も変わらずそうで、動作も決して機敏とはいえない。 「そういや、来るのは初めてか」 「はい……おや、これはソファベッドでしたか」  かと思えば、いうや否やコップをテーブルにおいてやおら立ち上がった彼女は、何を思ったか床にぺたんと座り込んでソファに顔を埋めたものだから、司は何事かとそちらに怪訝な目を向けた。  顔をソファに押しつけるようにしたまま微動だにしないナナ。司はますます訝しみ、 「……何してる」  何か警戒するかのような低い声を上げたのだった。その声にのそのそと首を持ち上げたナナは、そのまま頭を傾け司の方を向くと、細く、どこか熱っぽさを彼に感じさせる息を吐いた。 「ここは、いつも司さんが寝起きしているベッドですよね?」 「まあ、そうだが」  確認するまでもなくこの部屋には他にベッドは存在しない。司の故郷なら床に布団を敷くという選択肢もあったが、彼が暮らすこの宿舎は洋式。定期的に掃除するとはいえ、土足で上がり込める部屋の床に、布団越しとはいえ寝転がる気にはなれないというのが司である。 「お嫁さんにもらっていただけるということですし、これを機に司さんのにおいを身体に染み込ませてしまおうかと、そう思いまして」 「誰も嫁にもらうとはいってないし仮にそうだとしても染み込ませなくていい。てか続いてたのかよ、嫁設定」  何をどう曲解したらそういう結論に至ることが出来るのか。奇しくも綾音と同じ感想を抱き、そうであるとは知らないものの司は小さくため息を漏らす。  発言も行動も時として突飛なことは司も重々承知していることである。知り合ってから今日までの時間は綾音とほぼ同じではあっても、互いに飛び級で卒業、即図書館就職という流れを辿った者同士、過ごした密度においては彼女よりも遥かに濃いのだからさもありなん。そもそもそれ以前に―― 「設定ではありませんよ。本気で申し上げています」  やはりどこか熱っぽさを帯びた声色が、司の耳を刺激した。平生とは違い随分と感情の乗った――それでも平坦といってしまっても差し支えないものではあったが――声に、一瞬司の鼓動が跳ねる。 「――別れた後にそんなこといわれてもなぁ」  それを取り繕うように呆れ声を出し、残っていた茶を一息に飲み干す。  学生時代、二人は恋人同士であった。どちらが告白したというわけではなく、半ばなし崩しに始まったその関係は図書館に就職が決まってなお続き、しかしながら数ヶ月の後には誰に気づかれることもなく終局を迎えた。大きな喧嘩があったわけでもなければ別の人間を好きになったわけでもない。これといって理由もなく始まった関係は、これといって理由もなく自然消滅した、ただそれだけのことである。ただそれだけのことであるが故に、今となっては二人は気の置けない友人といった間柄に落ち着いていた。少なくとも、司はそう思っていた。 「まあそれはそれとして。本棚を拝見してもよろしいですか?」 「ああ、ご自由に」  それがいきなり嫁だの本気だのいわれ、挙げ句それがなかったかのようにそんなことを言い出すナナに返す言葉といえば、司にはそれくらいしか思い浮かばなかった。  彼女の真意が全く分からない。本棚の前に立った少女の背中を見やりながら、生じた混乱を落ち着かせるように軽めの深呼吸をする司。そんな彼に気づいた様子もなく、ナナはひたすらにずらりと敷き詰められた本を熱心に見ていた。   * * *   「ときに、司さん」 「ん?」 「綾音さんは、お料理ができないのですか?」  できあがったカレーを食べていると、突然ナナがそう口を開いた。 「できないっていうか……雑なんだよな。やろうと思えばできなくはないんだろうけど」  いいながら、かつて彼女に料理を教えたときのことを思い出す司。確かあれはアカデミー入学したての頃、各々生活にも慣れ始め、またゆとりもできはじめていた頃のことだった。当時は司はまだナナと知り合っておらず、綾音にしても知り合って数日といったところである。    まだ賑わいを見せていた頃の、現在の附属第一図書館で、これといって勉強するでもなくただだらだらと蔵書を読みふけっていた司の元に、随分と思い詰めた顔で綾音がやってきたことは、彼は今でも印象深く覚えている。何事かと問いただしてみると、それこそ思い詰めた声で、何か重大な告白でもするかのようにこう告げたのだった。 『……料理を教えてください』  これまで調理実習程度でしか包丁を握ったことがなく、そのときにしても自分はほとんど火加減を見たりばかりだったので、自炊するにはあまりにも心許ない。なので、高校時代から自分で料理していたと聞いていた司に手ほどきを願いたい。綾音の言い分はおおよそそういったものだった。司は司でそれに軽い気持ちで首肯し、彼女をこの部屋に招いてひとまず簡単にできるものをと思い、ハンバーグを教えたのだが、 「何をどう間違えたらただの消し炭ができるんだか……」  あの瞬間のことを思い出し、苦笑とも苦汁とも取れる何とも曖昧な表情を浮かべた司。あれは果たしてどうやって処理したのだろうかと思いをはせていると、ああそうか、強引に胃の中に押し込んだのだったと思い出し、多少気持ち悪さを覚えた。 「ですが、調理実習で火加減を見ていらっしゃったのですよね?」 「のはずなんだが……」  カレーと炊きたての白飯を三口ほどかき込みその気持ち悪さを押し戻すと、再び昔話――といってもそれほど遠くはない昔ではあるが、あの頃の話を始めた。 「要するに、あいつ火加減を見てるだけ、だったんだよな」  見ているだけで行動が伴わない。結果、司が事態に気づくまで時間がかかり、ハンバーグが炭化するにはあまりに充分すぎた。自分がもう少し気をつけていれば、そう思わないでもない司だったが、起こってしまったことを嘆いても詮無いと残りの材料で改めてハンバーグを焼き、そちらを綾音に、炭と化したハンバーグだったはずの何かを自分の分として食べたのだった。 「その後も何度か教えたが、いつまで経ってもできるようにならなくてな……まさか今でもできないとは思わなかったが」  できないのかよと問うた司に、綾音は堂々と『できないわよ』と返したのである。胸を張るようなことではないと突っ込んでしまいたかったが、同時にああやっぱりなと納得してしまった司は、結局そうかとだけ答えて、それ以上追求することはしなかった。 「なるほど。ということは、綾音さんは外食が多い、ということでしょうか」 「多分な。まあ、飲食街行けば一通り種類は食べられるし、そういう意味じゃ自炊なんてする必要はないんだが」  司の場合、単に金銭的にもったいないという感覚が働いているため自炊しているようなものであって、そのスキルも、たまたま家庭の事情で身についていただけに過ぎない。彼の言葉通り、このマナ・アカデミー本島において、自炊をする明確な理由は存在しないというのが実情である。 「てかそれ考えたら、お前が不摂生ってのもおかしな話だよな」  充実した飲食街がある上に定職に就いている以上、この島で不摂生という事態は早々起こりがたいことである。司のような金銭感覚を持つ人間であっても腹は減るし栄養が偏ればあちこちにがたが来る。金額的にも量的にも良心的な店が多いこの島の飲食街を利用しない人間は、司の知る限りで一人もいなかった。 「一応私も、ごく稀に飲食街を利用させていただくことはあります。ただ、どうにもこう、出不精と申しましょうか……」 「食事する暇があるなら本を読む、か?」 「はい」  ナナがそれをよしとしている以上、司には何もいうことができない。いくら元恋人とはいえ、いや現在も恋人であったとしても、あれこれと口を出すのは野暮というものだろう。そう考えるのが、司という人間である。 「まあそれはそれとしまして……ん、司さんにもう一つ、お伺いしたいことがあります」  そう切り出したナナの皿には、もうほとんどカレーは残っていなかった。司は話をしていたのだし、ナナはそれに時折相づちを打つ程度だったのだからさもありなん。答える前にカレーを口に運び、目だけでナナを促す司。 「司さんは、もしかして巨乳好きでいらっしゃいますか?」 「ごふ――っ!」  そしてむせた。カレーを吹き出さなかったのが奇跡といってしまってもいいくらいに盛大に。 「……大丈夫ですか?」 「が、大丈、夫……てか、原因お前、だろうが……」  激しい運動の後かのように息を切らせる司には、とぎれとぎれにそう返すのが精一杯だった。気管に入りそうになったカレーが喉に染み、涙がこぼれそうになる。水を流し込んで何とか治めようとしたが、喉がひりつく感覚は消しきることはできなかった。 「なんで、そんなこといきなり」  喉をさすりながら、少々枯れた声で答える司。一つ咳払いをし、もう一度水を飲んだ。 「本棚の一番上に、なにやら背表紙が巨乳の女性ばかりの漫画がありましたので、もしやと思い」 「いや、あれ単に内容が気になっただけだから。まあ、確かに巨乳過多だとは思うが」  数年前に読み終えて以来、手放すこともなく、しかしこれといって思い入れもないまま、ただ惰性で持ち続けていた単行本全十巻。どんな内容だったかはもう記憶の彼方に追いやられて久しいが、別段読み返そうとも思わず。自分の蔵書の中ではもっとも読まれていない本ではないだろうかとうなり、何故そんなピンポイントで微妙なところをついてくるのかとナナに目を向けた。 「そうでしたか……これで、もし司さんがそうだとお答えになっていたら、勢い余って綾音さんを手にかけるところでした」  それは勢い余りすぎではなかろうかというか、何故ここで彼女の名前が出てくるのか、首をかしげた司は、一考してすぐさまああと結論に至った。  何のことはない、つまりは。 「そりゃ確かに藤崎は胸でかいとは思うが……」 「加えて、司さんとは同郷、いわば幼なじみです。私が殺害に及ぶ動機としては充分かと」 「いや幼なじみじゃないからな」  同郷ではあるものの幼なじみというほど昔から付き合いがあるわけではない。むしろ短い方である。料理を教えたことがきっかけで話すようになった程度であり、それ以上の関係になったことも、またなりかけたことも存在しない。高校時代同じクラスに在籍してはいたものの、司の記憶の中に彼女と会話したというものは存在していなかった。 「というか、それ以前に極端すぎるだろ。仮に幼なじみだったとして、それだけの理由で殺すのか?」  わずかに残ったカレーをかき集め、スプーンですくって口に運ぶ司。 「司さんが巨乳好きで綾音さんと幼なじみであると仮定すると、すなわちそれは、綾音さんが私の恋敵であるということになります。敵、それすなわち討ち果たすもの、です」 「おいおい……」  断言されても非常に困ると、空になった皿をまとめて立ち上がりざまため息を漏らした。   * * *   「おい、もう十時回ってるぞ」  ソファの上で膝を抱えて、司の本棚から取り出した『人間失格』を読みふけるナナは、その声にまったく反応を示すことなく、うつむき加減のまま静かに項をめくり続けた。本の虫ではあるものの日本文学にはさほど明るくないナナは、普段ほとんど触れる機会のないそれに、すっかりはまりこんでしまっているのである。 「おーい、ナナさーん?」  半分伏せられたまつげは微動だにしない。動くのはただ項をめくる指先と、ゆっくりと呼吸を繰り返す胸だけだった。長い髪がカーテンのようになって、ナナと周りとを切り離してしまっているらしかった。参ったなと、もう何度目か分からないため息をそっと漏らした司は、精々邪魔にならないよう隣にゆっくり腰を下ろし、そっと彼女を伺い見た。  光を受けて所々銀色にも見える黒髪。その隙間から覗く彼女の横顔からは相変わらず何を考えているのかうかがい知ることはできず、むしろ平生よりも表情がない。人形といわれても納得しかねないほどの無表情に薄ら寒さを覚えた司は、また小さく息をついて彼女から視線をそらした。  別れてからもう二年は経っただろうか。それともまだ一年も経っていないのだろうか。図書館としては暇をもてあそぶほどの閑散とした毎日の中で、しかし古書整理という仕事がある以上忙殺されるより他にない司からは、時間の感覚というものが少しばかり抜け落ちていた。ただ少なくともいえることは、この間に他の誰かを好きになったという事実は存在しないということだけである。  かといって、自分は彼女を好いていたのだろうか。無論友人としては好感を持っているし、多少おかしなところはあってもそれは彼女の個性というものである。時折行きすぎがないではないものの、概ね彼女といて不快になったことはない。しかしそれが果たして恋愛感情と等号でつなげられるものなのだろうか。  司には分からない。恋愛らしい恋愛は、それこそナナと付き合うまで経験したことがなかった。となれば理解が及ばないのもやむなしと決め込んではみるものの、そもそもナナと付き合い始めた理由すら希薄である以上、本当に自分が持っていた感情は恋愛のそれだったのかすら分からない。であればいくら考えようとも堂々巡り。ソファにもたれかかり、思考を放棄するように天井を仰いだ。  真っ白な天井を見上げていても、結局答えは出せない。染み一つ浮いていない天井から得られるものは何もなく、例しにまぶたを閉じてみても色が白から黒へと反転しただけ。色味の変化程度では、司の思考に影響を及ぼすほどの効果は生まれなかった。 「……司さん?」  目を閉じていたからか、それとも停止気味は停止気味なりに頭を働かせていたからか、いつの間にか本から顔を上げていたナナに、声をかけられて初めて気づく。 「眠たいのですか?」 「いや、そういうわけじゃないが」  ソファベッドの上で目を閉じてだらりとしていればそういう結論にも至るかと猫背を作りながら苦笑を浮かべた司は、改めて時計に目を向けた。 「もう十一時近い……遅いし、送っていこうか?」  先程まではまだ十時半にすら達していなかったはずだがと、意外に長時間物思いにふけっていたことに内心驚きながら、流石にこの時間彼女を一人歩きさせるわけにはいかないだろうと立ち上がる司。と、 「それよりも、今晩泊まっていくか? と聞いてください」  膝を抱えたまま、小動物のように小首をかしげたナナは、普段通り抑揚に欠いた声でそんなことを言い出した。 「仮にそう聞いたとしてどうす」 「喜んで」  司の言葉が終わらぬ内に壮絶なフライングを決め込んだナナの表情は、やはりいつもと変わらぬ無表情のままではあったものの、司には普段に比べて目の輝きが違うように見えていた。 「即答かよ……まあお前が嫌じゃないんなら別にやぶさかではないが、しかしナナ。寝床はどうすんだ?」  この部屋にベッドは一つ。加えて一人暮らしの司は来客用の布団や簡易ベッドなどは持ち合わせてはいなかった。 「司さんと二人で寄り添って一晩、まったく問題ありません」 「いや問題だらけだろ」  基本的に司は倹約家である。一人暮らしという状況なら一人分のスペースが確保できればそれでいいだろうと、極々小さめのソファベッドを購入し、今日に至るまでまったく不便と感じていない。だがそれはあくまで一人で寝るという前提条件の下に生まれる思考であり、これに二人という事態は司には到底想定し得ぬことである。そして、 「いくら元恋人とはいえ今はただの友人。間違いが起きたときに責任が取れん」  むしろ彼にとってはこちらの方が理由として大きい。間違いを起こす自信はないが、万が一ということもある。そうならないよう万全の行動を取るのもまた義務なのではないか。 「なるほど。ですが司さん。お付き合いしていた頃もこういう事態がなかったわけではありませんが、結局一度も何も起きはしませんでした。その心配は無用かと」 「まあそりゃそうだが」  司の記憶では、少なくとも二回、ナナの部屋に泊まったことがある。その際も二人で同じベッドに入りはしたものの、結局二回とも何事もなく朝を迎えた。 「お前の部屋のベッドはセミダブルに片足突っ込んだようなやつだろが。根本的にサイズが違う」 「はい。ですので、こちらなら間違いが起こるであろうと想定した次第です」 「やっぱ帰れ。送っていくから帰れ」  そんな想定をされては司としてはたまらない。こちらは間違いを起こしたくないというのに何故それを狙って動くのか。恋人だった頃ならともかく……半ば威嚇するようにナナを見下ろし、またしてもため息を漏らす司だった。