無銘図書館

古代魔術院附属第一図書館・第一話

 マナ・アカデミー本島。そこは、一部の”分かる”人間からはルルイエと呼ばれる、太平洋到達不能極の近くに悠然と佇む学術都市である。その立地故に自己完結型都市とならざるを得なかったその島のほぼ中央、長大な塔の麓に、その施設はある。  マナ・アカデミー古代魔術院附属図書館の看板を掲げ、島全体に広がる現代的な建築様式の只中にあって、ひときわ異彩を放つパラーディオ様式の巨大な建造物。周囲を木々で取り囲まれ、他からある種隔絶されたその施設は、しかしながらアカデミー主要施設が集約する中央区画において、天を貫く中央管理塔を除けばもっとも巨大で、延べ面積においてはその塔すらも凌ぐ。  であるにもかかわらずそこに足を踏み入れた人間が一様に息苦しさを感じるのは、その蔵書の量故か、それとも蔵書の質故か。完成の当初こそアカデミーの学生、職員を問わず賑わいが途絶えることのなかったこの図書館は、そのほとんどを近年新設された第二図書館に奪われ、木々が周辺の音を遮ってこともあって、随分と閑散としていた。    附属図書館の仕事においてもっとも時間と労力を要するのが、未整理区画の書物整理である。隆盛を極めていた頃は貸出及び返却、保守管理業務がその役割を担っていたがそれも昔。手つかずのまま放置され気味であったそれらの整頓が、すなわち現在の彼等の職務であるといっても過言ではない。初めの頃こそ古書のかび臭いにおいに辟易していた藤崎綾音だったが、今となってはそれにも慣れ、制服のスラックスやワイシャツ、その上に羽織ったベストを汚すことに多少のやりがいを感じていた。  地上四階、地下五階建ての館内を、長く伸ばした赤い髪を揺らして東奔西走し、雑多に保管された書物をソートしていく。そうすることで徐々に図書館が生まれ変わるような感覚を得ることが出来るし、何より整理の行き届いていない書庫での新たな出会いには胸が高鳴る思いがする。この作業を通してすっかり本好きになってしまった彼女にとって、この場所は最早宝物庫であった。  故に、綾音がこの日地下の第二未整理書庫で見つけたそれは、彼女の好奇心をくすぐるには充分すぎる代物だった。   「何なのよ、これ」  見ようによってはドイツ語にも見えるしラテン語のようでもある。多少なりともその教養のある綾音にとって、単純にそれと片付けるには納得できないものがあった。最早言語に対する冒涜とすら思えてくるほどの出鱈目な文法、所々出てくる、どう読んだらよいのかすら判然としない単語。その一冊を見つけてから小一時間、彼女はその場から一歩も動かずに、取り憑かれたかのように、だが細心の注意を払って項をめくり続けていた。  一度本を閉じ、継ぎ接ぎだらけの薄汚れた表紙と背表紙を慎重に確認する。だが、そこに何も記されていないことは、彼女自身がすでに確かめたことである。  タイトル不明。言語不明。そういったものに出くわすこと自体はさして珍しいことではない。広大な附属図書館、その地下五階を全て占領するこの未整理書物の山において、あっさりとソートできた試しはないことは、綾音もよく知っている。だから、他の書から隔離されたようにぽつりと置かれたそれを見つけたとき、本来なら大きな興味を引かれることはないはずだった。  そう、手袋をはめた両手でそっと持ち上げる瞬間までは。 「とりあえず中身は大丈夫みたいだけど……どっか水漏れしてんじゃないでしょうね」  最初にこれを手に取ったときの感触、どこかぬめりを帯びた湿り気は、今も手に確かに伝わっていた。   「ナナ、ちょっと時間いい……って」  一階に戻った綾音が真っ先に向かったのは、図書館正面玄関のすぐ近くに位置する、かつては貸し出し希望者によってごった返していた受付だった。それも今となっては名ばかりであり、カウンターの内側に常に誰かが座していることで、辛うじて体裁を保つという有様である。 「はひ、はんへひょふ」  そしてこの日に限っては、その体裁すらろくに守られてはいなかった。  カウンター内で何か口をもぞもぞさせている黒髪の少女。陶磁器のように透き通った白い肌を綾音と同様の制服で隠した彼女は、左手にせんべいを、右手に愛用の湯飲みを、綾音を落胆させる程度には愛おしそうに大事そうに握っている。 「あんたは……一応仕事中でしょうが」 「ん……とはおっしゃいますが綾音さん。誰もいらっしゃらないのにカウンター内業務というのは、それはもう私にとっては苦痛以外の何物でもないわけでして」  租借していたのであろうせんべいを飲み込み、ぼんやりとして眠そうな目を綾音に向け、抑揚を欠いた声で少女――ナナは答えた。 「いやそうだけど……」  綾音とてカウンター内業務を経験したことがないわけではない。輪番で定期的に回ってくるこの担当は、申し訳程度に残るかつての名残の中で、彼女にとっても群を抜いて苦行だった。  誰かが来館する可能性が極端に低い中で、しかし早々カウンターから離れるわけにもいかず、暇を潰す術といえば読書にふけるか備え付けの端末でネットを見るかしかない。かといってそればかりに集中していては物好きによる突然の来館などに対応できないし、結果として手持ちぶさたな状況が続いてしまう。本好きになったとはいえ本質的に綾音は体を動かしている方が落ち着く類の人間であり、彼女がカウンター担当の日は、特別な用事がない限り誰一人そこに近づこうとしないのが常である。 「少なくとも、綾音さんがカウンターで発している殺意よりはマシだとは思いますよ。このせんべいの音は」  などと、やはり感情を読みにくい声色で答え、再びせんべいをかじる少女。普通の図書館なら注意されてしかるべき雑音が、誰にも咎められることなく響く。 「まあいいんだけどさ。ところで、これ」  殺意については自覚があるらしく、そこにつっこむことも間食について問いただすこともせず、地下から持ってあがってきた件の書を彼女の前に差し出す。  手袋越しに伝わるぬめり気は、未だ健在だった。それどころかむしろ、地下にあったときよりも幾分かその気が増した気がする。綾音は気づいてはいなかったが、彼女がはめた手袋には、すでに若干の染みが生まれていた。 「おや」  ナナの目が、ここにきてようやく色を見せた。ほんのわずかではあったもののどこか驚いたようにわずかに目を見開いた少女を見逃さず、綾音が改めて口を開こうとした、そのときである。 「駄目じゃないですか。トイレに行った後はちゃんと手を拭いてから作業に戻ってください」 「いやちゃんと拭いてるし。というかトイレ行ってないから」  再び目をゆるませた少女、そのあまりにもあんまりな言葉に、自然と綾音の身体から力が抜ける。間髪入れず言い返したものの、その声にも力はこもっていなかった。  綾音とナナの付き合いは、綾音がこの図書館で働き始めるよりも前、まだ綾音が学生だった頃にまでさかのぼる。その頃から何かと話が微妙にずれることしきりであり、何故彼女と会話すると往々にしてこういう目に遭うのかと、綾音が常日頃から抱いている疑問が、今日もまた鎌首をもたげてくる。天然と呼ばれる人種について多少は知るところがあるものの、果たしてこれがそうなのだろうかと詮無いことを考えていると―― 「雷……?」  かすかに聞こえたうなり声のような音は、まさしく遠雷のそれだった。正面玄関に目を向けると、扉にはめ込まれた小窓から覗く空は鈍色をしていて、昼間だというのに大地は妙に暗い。 「雨ですか。まったく、やっかいな」  平坦な中にもどこか忌々しげな音色を見つけた綾音は、声の主に再び向き直った。ぱっと見表情は普段通りの無表情ではあったが、付き合いがいくらか長いせいか、綾音には少女が若干苛立ちを募らせている様が見て取れた。 「まあ、湿気は本にもよくなさそうだしね」  とはいえここは室内。それも紛いなりにも図書館である以上そういった対策は十全に取られてはいるのだが。綾音にしてみれば、今手にしている書が濡れていること以外、その点に疑問を挟む余地はなかった。  今朝出勤したときも除湿器の点検は、簡易とはいえ怠っていないし、定期的なメンテナンスにおいても異常は見つかっていない。いったはいいものの、ナナが何故苛立っているのか、綾音の理解はそこには及ばなかった。  そんな綾音の耳に、今度は殊更先程の音色を強くした声が届く。 「それもそうですが、何よりロッカーに隠してあるおせんべいが湿気てしまいます。後五袋ほどあるというのに……」  いって改めて手にしたせんべいを口に運ぶ黒髪の少女。バリボリとかみ砕く音が、静寂を保つべき図書館に響き渡る。  その音と遠雷に混じって、赤毛の少女の盛大なため息が、それらを打ち消すほどの大きさで館内を走った。   「水神クタアト、ですか」  休憩時間となり談話室に入ったナナは、ロッカーからせんべいをまとめて取り出し席に着いたかと思うと、早速にその封を破った。どうやら湿気てしまう前に食べてしまう腹づもりらしいと呆れ顔を浮かべつつ、綾音は綾音でティーパックを取り出して手早く紅茶を入れ、それを手にナナの正面に座る。インスタントながらも味わい深い香りを立たせるそれをくゆらせていると、半ば出し抜けにナナはそう口にしたのだった。 「え?」  除湿機能が働いているのならせんべいが湿気ることもないだろうにと思っていたところにいわれたものだから、綾音は一瞬何を言い出したのか理解できなかった。 「Cthat Aquadingen」 「いや英語で言われても」 「英語じゃないです」  そんなこと、綾音にはどうでもいいことだった。  砂糖も何も入れぬストレートティーで喉を潤しながら、目の前に置かれた濡れた書物を見やる。  水神クタアト。はてどこかで聞いたことのある名前だなと考えながら、しかしどこで聞いたのか、どういった書なのかは思い出せない。喉に小骨がつっかえたような気持ち悪さを覚え、紅茶をまた一口。しかしそのつっかえは取れることなく、綾音は結局目の前の少女に頼ることにした。 「で、なんで濡れてるのよ」 「まあ、雨ですから」  それで答えたつもりなのだろう、ナナは出涸らしの茶をずずっとすすると、随分と至福に満ちた息をついた。綾音がわずかに眉をひそめるのに気づいた風でもなく、また新たなせんべいの封を切る。 「雨漏りでもしてるっての?」  雨が降って濡れる理由など雨漏りくらいしか思いつかない程度には、綾音は普通の人間である。だが、それだけでは納得しかねる事情が、綾音にもあった。  雨漏りしているというのであれば他の書にも被害が及んでいても不思議ではない。だというのに濡れていたのはこの一冊だけだったし、そもそも未整理書庫だというのにこれがあった場所だけは整然としていて、これと他とが接しないよう努めて切り離されていたという事実。まるでそれに触れると何かあるとでもいいたげなその配置が、どうしても腑に落ちなかったのである。 「というわけではないです。なんと申し上げますか、あれです。この子は汗っかきなんですよ。雨が近づいて湿気が増えると、どうしようもなく汗をかいてしまうんです」  本にそういう物言いをするのは、ナナの癖だった。ナナ曰く『本も生きているのだからあれとかそれとか呼ぶのは本に対する冒涜』であり、知り合ってまもなくの頃にそう言われた綾音は、多少面食らうところはあったものの、なるほどこの少女はそれほどまでに本が好きなのだなと微笑ましく思ったものだった。 「いやどういう意味よ」  だがしかし。かといって本が汗をかくなどと言われて納得できるほど、綾音の頭は複雑怪奇な構造をしていない。たとえ目の前の少女が本を溺愛していようとも、その物言いで話を終えられる道理はなかった。 「ん……綾音さんは人皮装丁本というものをご存じですか?」 「まあ、詳しくは知らないけど」  茶を一口飲んでいったナナに、そう答えてから紅茶を飲む綾音。どうにも薄気味悪い話になりそうだと、先んじて胃を洗うようにいくらか多めに流し込んだ。 「読んで字の如く、です。裁判記録を綴じるためにその死刑囚の皮を使ったり故人の遺言によるものだったりと、十九世紀くらいまでならそれほどマイナーな装丁ではありませんでした。この子もそういう一冊なんです。まあ、生まれは随分と昔のことですし、そういう意味ではこの子は後の彼等の先輩ですね」 「だけど、その人皮装丁本が全部汗をかく訳じゃないんでしょ? むしろ皮剥いでる時点で発汗機能は失われてるでしょうに」 「綾音さん」  当然沸いた疑問を口にした綾音に、ナナはこれ以上ないほどの真剣なまなざしを向けた。まるで何か重大な告白をするかのようなその目に気圧され、知らず姿勢を正す。  やがて少女の口から、ゆっくりと一つの真実が告げられた。 「世界には、不思議なことがいーっぱいあるんですよ」  直後、綾音ががくりとうなだれた。  ともせずとも今までの問答を一切合切ばっさりと切り捨てるその言葉が、綾音を打ちのめした瞬間だった。     ・水神クタアト  水棲の神やその眷属に関する伝承や召還法などを中心に、様々な魔術について記載された書物。一冊は大英博物館にて厳重に保管され、閲覧は禁止されている。また、かつて英国の探偵タイタス・クロウの元にあったとされるが、氏の邸宅は一九六九年に崩壊しており、その際に失われたものと思われる。なお、全てにおいて人皮装丁が施されているかは確認されていない。