無銘図書館

人形と人形師・第五話

第五話『古書店の店主と人形師』    夏の暑さものど元を過ぎ、山の所々に赤が混じり始めていた。行き交う人々の服装にも長袖が目立つようになり、立ち寄った書店では、話題の新人作家、ベストセラー連発の大物作家の新刊が、『秋の読書フェア』と銘打たれたコーナーで山を作っている。その中の一つ、当たり障りのない―というと作者に失礼とは思うが―ものを手に取り会計を済ませ、外に出る。どうせ今読んでも内容なんて頭に入ってこないことは分かりきっているはずなのに。  ずっと、あの魔女について考えていた。彼女の存在そのものについてもだが、何より魔女が言ったあの一言、『後ろ髪を引かれないよう気張れ』という言葉について。あの日からもうかれこれ一月は経つが、僕はいまだにその意味にたどり着いていない。  普通に考えれば、あんなものはただの部外者からの何気ない一言に過ぎない。色々と大変だろうけど頑張れ、と。だが、だがである。それをいったのは魔女を自称する明らかな変人であり、しかもその変人は、間違いなくただの変人ではないのだ。  あの魔女は彼女の症状について何か知っている。僕はそう確信している。でなければ何もかもが納得できない。僕を人形師と呼んだ以上は知らぬ存ぜぬは通用しない。魔女が何者なのか、それを知ることが、彼女を救うことに繋がるとさえ、僕は思い始めていた。   ***   「ちょっと出かけてくるよ」  起き抜けの彼女は僕の言葉に、ああ、とか、うん、とか生返事を返し、どこともなく空を眺めていた。最近はこういうことも増えていて、少しばかり不安を覚える。明確に何が不安というわけではなく、ただ漠然と、予言めいたもののように感じるのだ。  もう時間はそう残されていない。誰かがそんな風に、僕ののど元にナイフを突きつけているような薄ら寒さ。勿論根拠なんて何一つないのだが、僕は間違いなく、何かに焦っていた。だからこそかも知れない。幼い頃に通い詰め、そして今ではすっかり忘れてしまっていた彼の店のことを思い出すことができたのは。    揺れる車窓を背に文庫を開いたものの、やはり内容なんてこれっぽっちも入ってこなかった。たぶんよくあるジュブナイルものには間違いないのだが、如何せん僕の頭は、件の問題に対する回答の追求にそのリソースの大半を割いていた。  諦めて文庫を鞄に戻し窓に目を向ける。丁度列車はトンネルに差し掛かったところで、途端に白々しい明かりが車内を埋め尽くした。反響しあう動輪の音は酷くやかましく、それでも僕の思考を妨げるには至らない。いや、妨害が必要なほど前進していないというべきか。どれだけ考えを巡らせても、答えは僕の元には降りてこなかった。  ふと、音が遠のいたことに気づく。どうやらトンネルを抜けたらしいことを差し込む陽光で察した僕は、せかされるように鞄を手に立ち上がった。  あのトンネルを過ぎれば、目的地はもうすぐ目の前だ。程なくしてアナウンスが流れ、身体が前に持って行かれそうになる。ややあって景色が完全に止まると、僕は開いた扉から外に踏み出した。    駅から三十分は歩いただろうか。その建物は、僕の記憶通りの場所で、記憶通りの姿をさらしていた。  所々崩れ落ちた土壁。元は整然と並んでいたであろう瓦は大方が外れていて、残っているわずかばかりのものの中にも無事なものが見当たらない。窓硝子には流石に蜘蛛の巣は走ってはいなかったが、その代わり、家――と呼んでいいのかどうかも怪しいが――のあちこちに本物が張り巡らされていた。  明らかに荒ら屋。断言して住居としての最低限の機能すら維持できていない。かれこれ十五年以上はこの状態のままな辺り、実はこれは元々こういうものであって、この姿こそかこの家屋の健全な姿なのかも知れない……なんて、流石にそんなことはないと信じたい。  掠れきって『書房』の文字を判読するのが精々のホーロー看板が、その家屋、いや店が健在であると教えてくれなければ、きっと誰も彼もがその脇を素通りしてしまうに違いない。かつて散々通っていた僕ですら、本当に営業しているのか疑問を浮かべてしまうのが正直なところだ。それでも看板が出ているならと、入り口たる硝子戸に手をかけた。  相変わらずの立て付けの悪さ。いや、むしろ前よりも悪化しているだろうか。昔はコツさえつかんでしまえば思いの外楽に開けることができた扉は、しかし昔のような要領で動かそうとしてもガシャガシャとやかましく騒ぐだけで、一向に道を譲ろうとはしない。もしかして鍵がかかっているのだろうかとひとまず手を離し――磨り硝子の向こうで、人影が揺れるのが見えた。 「ああ、少々お待ちください。最近どうにも滑りが悪うございましてな」  向こうから聞こえてきた懐かしい声は、直後に耳をしたたか騒がせた打音によってかき消された。  そういえば以前も同じようなことがあった。あのとき彼は、確か扉の縁を蹴飛ばしていたっけか、などと懐かしい思いをしていると、それまで微動だにしなかった引き戸が強引に引きずられ―― 「お待たせを……おや」 「お久し振りです、おじさん」  色素の抜けた髪を全て後ろに流した、やせこけた顔に丸眼鏡をぶら下げたご老体が、姿を現した。  ここだけ時の流れに取り残されているのだろうか。本当に何も変化が見られない。くたびれた白いシャツと黒いベスト。腰の辺りからベストのポケットに伸びている鎖の先には、おそらく今もあの古ぼけた機械時計が針を動かしている。わずかばかりの胡散臭さを漂わせるにやけた口元も、眼鏡の奥でやけに炯々としている細い目も、あの頃からそっくりそのままこの時間に移動してきたかのようだった。 「これはこれは。珍しい客人の中でも一際とびきりではないか。これはあれか、明日にでも大寒波あたりが到来する予兆だろうか」  この物言いもまた懐かしい。クツクツという音が似合う笑い声を混じらせながら言う彼に、僕もまた、あの頃のように真面目くさって返した。 「明日は平年よりも暖かいみたいですよ。雲一つない快晴だそうで」 「はは、そうかそうか。それは重畳」  あの頃は重畳なんて言われても何のことか分からなかったが、今では流石に分かる。その程度には、やはり僕は成長し、それと共に時間も経過していた。  それでも、おじさんはあのときのままここにいる。そのことが、僕には何か嬉しく思えた。   「人形というものは古来からあらゆる目的で使われてきた。遊び道具としては勿論のこと、工芸品、商用品、かかしなど実用的なものから験担ぎに至るまで、文字通り多種多様な人形が存在する」  所狭しと並べられた背丈の高い木製の本棚。そこを隙間なく埋め尽くすのはありとあらゆるオカルトに関する古本ばかりで、つまるところこの店はそっくりそのままおじさんの趣味であり、また脳内に蓄積された知識そのものである。古紙とインクから漂う本のにおいと、おじさんが吸う煙草のにおいが、この空間そのものを現実から隔離しているように感じるのは、今も昔も変わらない。  曰く付きの人形について調べている。そう、本来の意味を限りなく白湯に近くなるまでに薄めて言った僕に、カウンターを挟んで座るおじさんは訥々と語り始めた。 「実用的なもの例に挙げるならば、ラブドール、もっと大きなくくりで言うならダッチワイフだな」 「また極端なもの持ってきましたね……」  他にも色々あるだろうに、何故そのチョイスなのか。  しかしダッチワイフとは……彼女が自分の身体をシリコンにしたいと言ったのは、もう半年近くは前だっただろうか。 「いやはやしかしだね。昨今のラブドールというのは最早芸術品の域に達しつつあるよ。当初ダッチワイフといえば、私からすれば噴飯ものの造形ばかりであったが、それが今となっては観賞用ドールと大差がない。まったくもって人間の欲望というやつは恐ろしいものだ」  この店主は何でも知っている。それが僕の認識である。一つを聞けば十で返し、十を聞けば百で返す。本人の弁を借りるならば「私が知っているのは私が知っていることだけであり、それ以外についてはとんと分からん」とのことだが、今の今まで、彼が僕の問いに答えられなかったことはない。彼との交流があった頃は僕はまだ幼かったのだけど、それでも、いやそれ故に、僕の目には彼は世界の全てを知識として内包する大図書館のように思えたのだ。 「それはともかくとして。果たして君のいう曰く付きの人形というやつがどういった類のものなのか詳しくお聞かせ願えないだろうか。一口に曰く付きといってもそれこそ千差万別、星の数ほどあるからして」 「どういった類、ですか」  そう言われると少々困る。何せ僕が本来聞きたいことと彼に尋ねた内容は似て非なる、いや全くの別物だからだ。とはいえ「実は」などと切り出せるはずもなく。本当に、どうしたものか。 「……まるで人間のように動く、そういう人形の話ってありますか?」  結局の所、着地点はそこだった。それ以外に何といって説明する。人間たった一人の少女の身体が、突如として人形にすげ替えられてしまっただなんて。 「まるで人間のように、かね。ふむ……」  そう言うなりおじさんは茶を一口あおり、腕を組んで黙り込んでしまった。  おや、と僕の視界が斜めに傾く。普段なら触るだけで大量の天然水を溢れさせる蛇口が、何かを詰まらせたようだった。 「どうでしょう?」  この店主をしてその手合いの話を知らないとは到底思えないが、どうにも歯切れが悪い。いや、確かに彼が知らないことは多分にあるだろうし、知らなかったからといって僕におじさんを責める由はないのだが。 「人形が動く、という話自体はどこにでもある話ではあるのだがね。しかしながらそれは、大抵が瞬きをした、気づいたら向きが変わっていた、といったものだ。これが人間のようにとなると……まあ心当たりがないわけではないが」  曖昧な物言いであることに変わりなく、しかしそれでも僕は自然と身を乗り出した。  どんなわずかな手がかりでもいい。今の僕には砂粒ほどの手応えすらないのだから。明確な答えを求めているわけではないのだ。せめて現状に繋がる糸口だけでも手に入れば…… 「……あらかじめ断っておくが、これはこの街に限った話であるからして、君が求めているものとは全く別物である可能性が高い」  おそらく彼にとっては僕の食いつきようは想定外だったのだろう。わざわざそんなことを言い出したおじさんは、小さく咳払いをしてこんな話を始めた。   ***    この街において、かつてとある信仰が存在したことを、君は知っているだろうか。今となっては廃れきってしまい、最早見る影すらない信仰だが、それでも確かに存在したそれを。  蛇神? いいや違う。そんな一般的なものではないよ。  山神? 確かにこの街は山に囲まれた立地ではある。だがそれも違う。  海神? まさかと思うが本気で言っているわけではあるまい? この街のどこに海があるというのかね。  正解は――人形だ。人を象った傀儡を、この街の人々は信仰していた。何故そうなってしまったのか仔細を知る者は最早いはしないが、私が知る限りのことを限りなく簡潔に述べるなら、この街にとっての神がすなわち人形であったからだ。  意味が分からない、といった顔をしているな。それについてはひとまずは同意しておこう。だが、いくら理解が及ばなくともそれが一つの真実であり、否定をすることは誰にもできん。どうしても無理だというのなら、付喪神とでも思っておけばいいさ。まあ実際の所はそれとは全くの別物なのだがね。  さて。その前提を踏まえた上で、こういう話がある。これはこの街のとある少女が経験したという体裁で語られる話なのだが……言ってみれば都市伝説、いや、この街の外では全く聞かれない話だから、それ未満の噂話といったものだ。  その少女は、幼い頃からある人形を大切にしていた。見た目については様々あり、海外のアンティークドールであったりこの国伝統の人形であったりと今ひとつ判然としない。ただ一点、球体の関節を備えているという点においては一致を見ているのだがね。  その少女が成人を迎え、流石に人形遊びをする歳でもなくなった頃。彼女はその人形を供養に出すべく神社に持っていったそうだ。その神社は人形を引き受け、彼女は帰路についた。  その夜。時刻は丑三つ時を回ったあたり。カタカタカタという音に彼女は目を覚ました。何事か、よもや盗人でも入り込んだかなどと、怖々としながら音のするほうへと目を向けた彼女は、思いもよらぬものを目撃することになる。  手放したはずの人形が、あろうことか自身の両足でもって立ち上がり、近づいてきているではないか。その歩みは緩慢ではあったが、確かに歩いている。  カタ、カタ。足が床に触れる度、人形は関節を鳴らす。  カタ、カタ。少女はその尋常ならざる事態におののいたか、あるいは金縛りにでもあったのか逃げることすら叶わず、ただ両の目を見開いてその人形を見つめ続ける。  カタ、カタ。やがて人形は、彼女の目の前にまでやってきた。そして、それまでだらりと下げられていた両腕を、やはりゆっくりと彼女のほうへと向けると、こう、囁くように口を開いたのだ。   「捨テナイデ」   ***   「……なんとも、まあ」  それが、話を聞き終えた僕の言葉だった。  僕はホラーが苦手だ。幽霊話なんて金を払われたって聞きたくない。実際、この程度の話であっても僕の背中は何やら冷たい風に晒されているかのようだった。 「はは、変わらずこういう話は苦手と見える」 「苦手ですよ。必要に迫られなければ聞きたくない程度には」  言って、今の話を口の中で転がしてみる。  球体関節を持ち、自分の足で歩き、両手を動かして、口を開いて喋ったという点においては彼女との一致を見ている。他方、この話においては、種別はさておき人形はもとより人形であり、元は人間であったという話はなかった。 「ちなみに、その人形についての逸話というか、他に何か情報はありませんか?」  例えば、かつての人形の所持者が不幸な事故で亡くなったとか。  例えば、子供を亡くした親がその子を想ってよく似た人形の制作を依頼したとか。 「残念ながら私の耳には届いていないな。先も言ったとおり、この話における人形は、その種別すら曖昧模糊であるからして」  それもそうか。出自が分かっているのなら、種類があやふやということは起こりえまい。第一、それこそおじさんの言葉を信じるなら、この話は街の外には伝わっていない噂話未満のものらしいから、何らかの情報源として活用するにはあまりにも弱すぎる。 「それにしても、人形信仰ですか」  むしろ僕はそちらのほうに興味がわいた。彼女の症状とは直接的には関係ないだろうが、彼女もこの街の出身だし、無関係であると切り離すには判断材料が足りていない。  大学に入るまでの間ずっとこの街にいたわけだが、そんな過去があったなんて話は一度も聞いたことがない。廃れた信仰ならばそれもやむなしかも知れないが、何か、こう……自分でもよく分かっていないのだが、引っかかったのだ。 「左様。近年においてはそんな様子はどこにもないが、少なくとも百年ほど前にはまだその風習はあったようだ」 「となると、信仰の中心はやっぱりあの神社ですか」  あの神社とは、この街唯一にしてそれなり以上の伝統と規模を誇る、丘の上に陣取っている宮のことである。僕が知る限りであの神社は建立から三百年は経っているし、となればそういうことなのだろう。 「――いいや、違う」 「え……?」  その確信は、おじさんの一言によってあっさりと切り捨てられた。  どういうことだ? だってこの街にはあの神社以外にそれらしいものはない。勿論僕がこの街の全てを知っているわけではない。にしても、おじさんの言い分から推察するに、人形の神格化はごく一部にあった信仰ではないだろうし、となればどうしても人形信仰とあの神社は密接な関係にあると考えるべきだろう。だというのにそれを違うとは。 「確かにあの宮の歴史は古い。だが、私が調べた限りにおいて、あの神社と人形信仰の間には、少なくとも友好的な繋がりは存在しないのだよ」  挙げ句そうきたか。これはますますもって分からなくなった。 「仔細は分からんよ。私は別に氏子でもなければ神道の研究家、あるいは信奉者でもないのでね。ただ、門外漢であることを憚らず言わせてもらえれば、人形を神の寄代としてではなく神そのものとして見ていたこの地域は、彼等に言わせれば邪道であったと、そういうことなのだろう」  森羅万象に宿るものが神であり、森羅万象がすなわち神ではない。微妙な差異だが、その隔たりは僕等部外者が思うほど小さくはないということか。そういうことなら、おじさんの言う友好的な繋がりが存在しないということもうなずける。  僕だって、彼女は元々人形で、そこに魂が宿っただけだなんて話をされたら、その人物とは絶対に仲良くなれないと思うに違いない。 「だが」  と、おじさんは少しだけ声を落としてそう続けた。 「だが?」  思わず聞き返したのは、先程の話に否定的になる材料はなかったからだ。  おじさんが門外漢なら僕なんてそれに輪をかけて部外者、ともせずとも素人の域にすら達していない。そんな僕に何の判断ができるというのかという疑問はあるにせよ、それでもおじさんの話には違和感を覚えるような言葉はなかった。 「いやな、言いはしたものの、果たしてあの神社について、その考えが当てはまるのかと、そう思ったのでね」  そう言うと何かを思案するようにあごに手を当てるおじさん。その様子からは彼が何を考えているのかうかがい知ることはできないが、少なくとも自分で出した結論に彼は納得していないようだ。  それこそ僕の手に余る。おじさん自身が自分の意見をすぐさま引き下げることは昔からあったことではあるのだが、そこから先、話がどう展開されるかを僕が読めた例しがないのだ。僕にできることといえば、精々ぬるくなった茶をすすり、彼の言葉を待つだけである。  神社を名乗る以上は神道に通じているはず。ならば神道の考えとこの地域がかつて抱えていた信仰が分かり合うことができないものとする結論は間違ってはいないだろう。それをひっくり返せるだけの事情があるというのなら話は別だが、しかしその事情を僕は知らない。あるのかどうかすらも分からない。  そんな僕が湯飲みの茶を半分ほど飲み終わった頃、ようやくおじさんは再び口を開いた。もっとも、おそらく時間にして三十秒も経っていないのだろうが。  ――そして、その時間の短さに反して、彼から聞こえた単語は、今の僕にとって鉄の塊をぶつけられるのに等しいものだった。 「神に仕える巫女にとってみれば、まあそういうことでいいのだろう。だが……魔女にとってはそんなものは些末事ですらないのではなかろうか」  その瞬間の僕は、きっととても間の抜けた顔か、そうでないとしても酷い形相をしていたことと思う。言い終わったおじさんの顔に浮かんだしかめ面が何よりの証左であり、しかしそのことを気にすることができないほど、その一言は聞き逃してはならないものだった。 「どうしたね。随分な間抜け面だが」  そしてとうとうおじさんにそう聞かれてしまう。そこまで来てようやく、僕は何か取り繕わなければという、焦燥にも似た思いに駆られた。 「いえ……神社と、魔女という単語がどうしても結びつかなくて」  実際の所それはそれで間違いない。神社を神の家とするならば、魔女はその対極に位置するであろう悪魔に通じる存在。ならばどうして結びつけられようか。  勿論、悪魔が神の対極という考えは、いってしまえば一般論といったところだ。僕個人としては実のところ神と悪魔に差異なんてほとんどないとさえ思っている。どちらにせよ人間が自分達に都合のいいように想像し創造したものに過ぎず、人間に善という形で報いるものを神、悪という形で堕落させるのを悪魔と称しているだけのことだ、なんてことを言ったら、僕は色々な人に怒られてしまうだろうか。まあ、怒られたところで僕のこの考え方が変わることはないのだが。  だが問題はそこではない。そう、僕に充分すぎる衝撃を与えたのはそんな些細なものではないのだ。  彼の言葉の中には、今の僕には到底聞き逃すことができない一言が混じっていた。彼にしてみれば何のことはない言葉だったかも知れないが、その言葉には、あの日から僕の脳裏にしつこくこびりついて離れようとしないあの科白を、より鮮明に耳朶へと叩きつけるだけの力があった。 「まあ無理もない。この街には魔女が住んでいるという話そのものは、所謂オカルト趣味の連中には比較的有名な話ではあるが、まさかそれが神社に住んでいるとは誰も思うまいて」  なるほど、それなら僕が知らないのも当然か。オカルト、こと幽霊話については苦手中の苦手だし、未確認生命体や地球外知性体についても、いてもおかしくはない程度には考えていても積極的肯定には至っていない。  だが、だがしかし。そういうことを僕は問題にしているのではない。 「聞くところによれば、あそこは元々は魔女の住居だったそうだ。それが、ある代に神道と交わり、今の形に収まったという。近代日本において魔女というのもどうにも違和感があるやも知れんが、そこはひとまずそういうものとして飲み込んで欲しい」  そういうのならあえてそこに疑問を挟み込むのはなしにしよう。それに僕は、彼がいうほどその点に何らかの違和感を覚えてはいない。それこそ先程のオカルト云々と同じだ。  ――そもそも、そんな、いたのかいなかったのかはっきりとしない話なんて、正直どうでもいい。僕が、僕が知りたいのはそんな胡乱なものではなく、現実に形を持った、 「――そして、その魔女の末裔が、今もあの神社で暮らしている」  そんな言葉の直後、背後で鳴り響いた音が、僕が立ち上がった拍子に座っていた椅子が転倒したことによるものだと気づいたのは、おじさんの目が珍しく、そしてこれでもかというほどに見開かれたのが見えたからだった。  魔女の、末裔。僕が思い描いたのは、当然、あの、魔女を自称する和装の女性だった。というよりも、おじさんの口から魔女という単語が出たときからずっと、あの女性の像が浮かびっぱなしだった。  明確に繋がったわけではない。たまたま僕の故郷にそういう伝承があっただけだと言われればそれまでだし、そもそもあの人と出会った場所はここから随分と遠い。ならば本来はただの偶然と済ませてしまうのが道理なのではないか。  そんな冷静な分析をする一方で、だが僕の心はどういうわけか妙な確信を得ていた。それこそ、あの日魔女と対峙したときのように。  この街に住まう魔女の末裔こそ、僕が出会ったあの魔女なのだと。 「……大丈夫かね?」  僕の反応はよほど想定外だったのだろう。おじさんから滅多に聞かれない科白を耳にして、僕は小さく首肯して椅子を起こした。そのままやおら座り込むと、湯飲みに残る冷め切った茶を一息に飲み干した。  そうか、魔女はこの街に住んでいるのか。まさかもう一度会う機会が巡ってくるとは思ってもみなかった。いや、会えると決まったわけではないが、それでも居場所が分かったのなら、改めて対峙するのはそう難しくはない。そのためには―― 「おじさん」  聞かなければならない。この、知らないことは知らないといいながらも、僕にとっては何もかもを知っている、この店主に。 「その魔女の話、もう少し詳しく聞かせてください」  本来尋ねたかった事柄からは大きく逸脱している。そのことに、そのときの僕は最後まで気づかないままだった。