無銘図書館

人形と人形師・第四話

第四話『魔女と人形師』    なかなか寝付くことが出来ないのは、慣れないベッドであることに加えて、多少どころか相当な無茶をした代償だろう。散々吐き出しておいて無様なことこの上ないが、まだ全身に気怠さが残っている。むしろ吐いたからこそこれだけ身体が重いのかも知れないが、僕にはどちらでも関係ない。  トイレで目を覚まし、気遣う彼女を強引に安心させてから口をすすぎ、汗まみれの身体をシャワーで洗い流してから床について早三時間。寝たふりを決め込んだ僕の背中には、彼女の指が添えられ、時折撫でるようにむずがゆく動く。もしかすると彼女も眠りにつくことが出来ていないのではと肩越しに振り返ってみたが、視界に飛び込んできたのは落ち着いた、まるで死人のような、だがいつも通りの彼女の寝顔だった。  たまに思う。果たして彼女に睡眠は必要なのか。これまで眠りを知らない彼女を見たことはないが、それは単に人間だった頃の習慣というか名残なだけで、本当は睡眠という行為には何の意味もないのではないのか。  まあ、そうだったとしても彼女の眠りを妨げるつもりは全くないのだが。  窓の外から聞こえる音はますます激しくなってきた。一瞬昼のように明るくなったりするところを見るに、明日の予定は変更する必要があるだろう。  古びた洋館と嵐。演出の上では基本に忠実で、ここが山奥というのもどこか暗示めいていて不安を覚えずにはいられない。もっともそれは僕の考えすぎというか、ある意味職業病みたいなもので――いや、どのみち寝付けないことに変わりはないのだが。  起き上がって洗面台へと向かう。見事に磨き上げられた鏡に映った顔に、何て醜い面だと感想を抱くと、蛇口を思い切り捻って水をその顔に叩き付けた。したたる水をタオルに拾わせ、再び顔を上げる。だが結局、いくらかマシになったとはいえ、そこに現れた顔には酷い以外の感想を持てなかった。  それに、少し老け込んだか。思えば最近はろくに休めていない気がする。昼は大体一日中机に向かいっぱなしで、夜になればこそこそと調べ物。寝るのは三時以降がほとんどでその四時間後には目を覚ます。睡眠時間が不足しているとは思ってはいないが、どうにも疲労感が拭えないのは事実だった。もっとも、僕も好きこのんでやっているのだし、それについて文句を言うつもりはないのだが。  ベッドを振り返るとそこには彼女の姿。暗闇にぼやけて浮かぶそれは本当に死人で、もうこのまま目覚めないのではないかと毎回毎回不安になる。もしかしたら本当にこのままかも知れないし、もしかしたらこの後もずっと彼女は自分の意志を持った動く人形として永遠を生きるのかも知れない。  まあ、いずれにせよ僕のやることは決まっている。傷つく度に彼女の身体を治し、出来る限りで彼女の助けになるだけだ。   ***   「雨、止まないね」  案の定雨は朝になっても止むことなく、むしろ昨晩よりも勢いが増していた。雷こそ鳴りはしないものの、これでは外出なんて出来るわけがない。山の上にあるからか窓を閉め切っていても室温はさして高くはなかったが、どうにも湿度が右肩上がりで、不快な汗が止めどない。  さてどうしたものか。トランプなら一応持ってきてはいるのだが、二人でやったところで盛り上がりに欠けることはまず間違いないし、そもそも彼女はどういうわけかカード運がすこぶる悪いので、何をしようと僕の勝ちは目に見えている。館の女性も交えればその辺りも多少は変わるとは思うが―― 「あれ、どうしたんだろ」  突然、彼女がそう口を開いた。扉の方を向いて小首を傾げ、僕も何事かとそちらを見る。勿論そこには一枚の扉があるだけなのだが、しかし、 「何かあったかな」  その向こう側、恐らくは階下から届く慌ただしい物音に、僕はのろのろと立ち上がったのだった。 「おや、お客人がいたのかい。こいつは失礼」  連れだって一階に降りた僕等を出迎えたのは使用人姿の女性ではなく、むしろその対極に位置すると言っても過言ではない、和装に身を包んだ妙齢の人物だった。  清流かと思うほどの美しい髪。かすかに赤みがかったその長髪は雨に濡れていくらか肌に張り付き、何かの鳥が描かれた和服もしっとりと濡れていて、言い知れぬ艶やかさが漂ってくる。隣に彼女がいることも忘れて息を呑む思いを味わっていると、 「傘は持ってたんだけどねぇ……これだけ降られちゃ役になんて立ちゃしない」  それが怪訝な目に見えたのだろうか、そう僅かに愉快そうに漏らした女性は、切れ上がった目を僅かに屋敷の入り口に向けた。つられてそちらを見ると、さっきまではなかった真っ赤に染め上げられた番傘が立てかけてあり、例によって余すところなくずぶ濡れだった。 「着替えないと、風邪引いちゃいますよ?」 「そうは言うけどねお嬢さん。生憎と着替えなんて持っちゃいないんだ。今メイドさんに適当に見繕ってもらってるんだけどさ」  なるほど、それで妙に騒がしかったのか。恐らくは先にタオルだけ渡して着替えを取りに行っているのだろうと考えていると、廊下の向こうからまたばたばたと足音が聞こえてきた。 「申し訳ありませんお待たせしまして。今お風呂が沸きますのでどうぞお使いください」  走って多少呼吸が乱れてはいるがそれでも淑やかさを失うことなく、姿勢も折り目も正しいまま。額に汗は滲んでいる様子だったが、それだけではこの女性の年不相応さを補うには足りない。もしかすると見た目だけが若くて実は割と年を召しているのかも知れないと、若干失礼な考えが頭をよぎる。 「んじゃまあ遠慮なく頂くよ」  こちらはこちらで、言葉通り一瞬たりとも遠慮したりすることなく、というよりも勝手知ったる何とやらといった具合に使用人服の女性が走ってきた方に、見て分かるほどに威風堂々たる様で歩いていく。  すれ違う刹那、何か甘ったるいにおいが鼻をかすめた。   ***   「残念ながらお名前は存じ上げませんが」  広めのロビーに設けられた談話スペース。煎れてくれたコーヒーを飲みながらの僕の問いに、女性は最後にそう付け足した。何でも客入りのよろしくないこの洋館において、数少ない常連客らしい。常連客と言わしめるほど訪れているというのに名を明かさないとは、何か事情でもあるのだろうか。別段なんだって構わないのだが、少しばかり引っかかった。 「一度お伺いしたのですが、自分は魔女だとはぐらかされてしまいまして」 「魔女、ですか」  魔女というとやはりあれだろうか。鍋にトカゲの尻尾やらマンドレイクやらを投げ込んでマグマのようにたぎる煮汁を作っているのだろうか。見たところ少なくとも鉤鼻ではなかったし、服にしても黒の外套は見当たらなかったが。ファンタジーの世界ではあるまいし、そこまで基本に忠実な魔女もないだろうが。  さて、そんなとりとめもない妄想は置いておいて。名を聞かれて返す言葉が魔女とはこれ如何に。まさかそれが名前でもあるまいし。何かの暗号か、それとも比喩か。 「あ、いけない、片付けの途中でした……申し訳ありませんが、失礼いたします」  唐突にそう言って、やはり綺麗な辞儀を見せてくれた女性は、何かあったら奥の事務室にいるので呼んで欲しいと立ち去った。残されたのは僕一人で、残ったコーヒーをちまちまと飲むことくらいしかやることはなく、要は完全に手持ちぶさただった。  どうしたものか。部屋に引き返してもいいがそれはそれで面倒だし、少なくとも戻り次第面倒なことに巻き込まれることが目に見えている。いつまでも放置するつもりはないが、今すぐ戻るのもどうだろうか。 「おんや、少年だけか。お連れさんとあの子はどうした?」  不意に後ろから声をかけられ、何も考えることなく首を巡らせた。  ――そこには、タイトスカートを穿いて、上半身はワイシャツを羽織っただけの女性が、あまりにも堂々たる姿で立っていた。 「洋服ってのはどうにも着慣れなくてねぇ。どっかおかしいかい?」 「あ、いえ……」  おかしいといえばおかしい。ただ、それを言及するのもはばかられるほどに、この女性はひたすらに超然としていた。  和服の上からは分かりづらかった、豊かながらも整った胸。今にも隙間からこぼれそうなそれを気にする風でもなく、かといって無闇に見せびらかすでもなく。上気してほんのりと桜色に染まった肉感的な身体は、僕が再びしばしの呼吸を忘れるには充分すぎる色香を揺らめかせている。女性から流れてくるバニラに似た甘くふくよかな香りと相まって、春先の微睡みを思わせる気分が、僕を支配していた。 「あの、僕も一応男なんですが」  それに流されてはいけないと本能が警鐘を鳴らし、少々無様ながら抵抗の意を示す。何でもないふりをしながら頭のしびれを取り去ろうと残りのコーヒーを一気に飲み干し、わざとらしく女性から視線をそらした。だが、 「なんだ、こんな年増に欲情でもしたってのかい? なんとも物好きなやつもいたもんだ」  口に広がったコーヒーの香りは、その声を聞いた途端に霧散してしまい、結局は本当に無様で虚しいだけでしかなかった。 「欲情って、別にそういうわけでは」  それでも諦め悪く、ソファの肘置きに頬杖までつくと、それを言い訳とでも受け取ったのか、女性は『へぇそうかい』とケラケラ笑いながら立ち去っていった。  疲れがこみ上げてきて、ここ最近で一番大きなため息をつく。全く、何なのだあの人は。数回言葉を交わしただけで、初対面であるはずの僕をからかって遊んでいるとでもいうのだろうか。いきなり欲情がどうのなどと言うだろうか普通。  ただまあ、先の言葉は言い訳と取られても仕方ないというか、実際その色がなかったわけではないのだが。女性の残り香が鼻腔をくすぐる中で、踊る鼓動をなだめようと深く深く息を吸う。すると途端にそのにおいで肺が満たされて、余計に心臓を昂ぶらせる羽目になってしまった。  何をやっているんだ、僕は。もう少し落ち着いていられないのか。これでは彼女のことを笑うことなんて出来ないではないか。輪をかけて疲労が色濃くなり、僕はまた大きく息を吐き出した。  コーヒーのおかわりでももらおうか。そう思い、カップを手に少しばかり重たい腰を上げようとした。そのときだった 「しっかし、少年も大変だねぇ」  そんな言葉とともに、薄くなっていたはずの例の香りが、今度は先程よりも濃密にからみついてきたのは。その出し抜けさに驚きを隠せず反射的に肩がびくついた僕は、少しばかり恥ずかしい心持ちで声のした方に目を向ける。  刹那。余計に心臓に悪い思いを味わうことになってしまった。  近かった。何がというと、それは勿論件の女性との距離が、である。充分な空間とソファが用意されたこの場所において、肩と肩がふれあうほどの、いや実際に肩に温もりが伝わる至近に、挑発的に微笑む女性が、やはりワイシャツを半ばはだけさせて腰を下ろしていた。 「大変って、何がですか」  言ってはみたものの、確かに現在進行形で大変な事態に直面しているのかも知れない。見ず知らずの女性が、すぐ隣で惜しげもなく肌をさらし、声をかけてきているのだから。  女性が僅かに身をよじる度に、腕や布がそよ風のように僕の身体をくすぐっては離れ、その都度胸があらわになりそうになる。距離を取ろうにも僕が座っているのはソファの端で、女性と肘置きに挟まれては身をずらして逃げる手立てはなく。ならばと立ち上がろうとしてみたが何故か脚が言うことを聞かず、借りてきた猫の真似をするくらいしか、僕に抵抗する術は残されていなかった。要するに僕は、におい立つ女性の色気に中てられて身動きどころか真っ当に思考することも危うい状態であり、焦りにも似た妙な感覚を得ていたのだ。 「何がって、そりゃお前さんの連れのことだよ」  唐突に彼女が話題に上ってもその気分が変わることはなく、僕はとにかく、何かに取り付かれたかのように平静を取り繕うことに躍起になっていた。 「彼女がどうかしましたか?」  努めて穏やかに声を出した僕は、それが済むと今度は、何はともあれまずは脈動する心臓をどうにかしなければともがき始める。深呼吸をしてはむしろ逆効果であることは先程実感しているし、となるとどうすれば―― 「どうも何も。不自由な身体なんだろ? んで、お前さんはその介助人。まだ若いってのに苦労してるねぇって話さ」  思いもかけない女性の一言に、僕の心臓は先程までとはまるで違う鼓動を打ち鳴らした。  頭ではなく脳が直接揺さぶられ瞬く間に前後が分からなくなり、全身の筋肉や神経が一切合切いうことを利かなくなる。それはまるで、いやまさに金縛りだった。下手をすれば乱れてしまう呼吸を整えようとするもどうにもうまくいかず、知らず知らずのうちに胸を押さえる。それでも喘ぐ喉は収まらず、むしろ余計に酷くなって目眩が襲ってきそうになる。  落ち着け。まだ明確に何かを言われたわけではないのだ、何を慌てる必要がある。そんな風に必死に説得してみるも、不穏を通り越した恐怖とも絶望ともつかないよどみは、ただひたすらに広がるばかりだった。  たったそれだけを告げられただけで、僕は女性が何もかもお見通しなのだという思いに捕らわれてしまっていたのだ。  何なのだ、一体何だというのだ。何故この女性はこうも断定的に言うことができる。それは確かに、彼女の歩き方や所作には多少の不自然さはあるかも知れない。だが違和感を覚えるほどではないし、たった一度、それもすれ違う程度の接点しかないとなればなおのことあり得ない。 「まあ事情は人それぞれ。あれこれ詮索するのも野暮ってもんだ……どうだい、一つ」 「いえ……」  差し出されたのは小さな盃。中は透明な液体で満たされ、あのにおいを打ち消すほどの強烈なにおいが鼻に突き刺さった。  清酒か、焼酎か。いずれにせよ酒に詳しくなく、嗜む程度にも飲まない僕に区別が出来る由もなく。それに、到底アルコールを口に入れる気分ではなかった。  女性はそれを気にするそぶりもなく、自分の分を豪快にも一気に飲み下した。向こうを見れば荒々しい文字が描かれた一升瓶が鎮座しており、その首にはタグのようなものがぶら下がっていて、几帳面な文字で『魔女様お取り置き分』と記されている。 「前来たときにあの子からもらってね」  言いながらも二杯目に手を伸ばす女性。それを再び一息にあおり、細長く熱っぽい息をつく頃には、僕もようやく、完全にとはいかないまでも落ち着きを取り戻すことが出来た。 「あの」  僕は基本的に社交性は高い方ではない。むしろ進んで人とは関わろうとしない人間であると自負している。家に籠もりがちなのもそれに起因するところがないではない。そんなものを自負しても挨拶に困るとは思うが、とにかく他人との接点を極力小さなものにすることにかけては少しばかり覚えがあった。そんな僕が自分から、それも知り合ったばかりの女性に声をかけるなんて、彼女当たりが見たらびっくりしてひっくり返るほどの珍事だ。 「彼女のこと、どこまでご存じなのですか」  その珍事を引き起こしてでも、それは聞いておかねばならない。そんな考えが、うるさい鼓動が鳴りやんだ途端に脳裏に浮かんでいた。  この人は何か知っている。彼女があんな身体になった原因とまではいかないまでも、それが何の作用によるものなのか。根拠のないただの直感でしかないことは承知の上で、僕ははやる気持ちを抑えきれず、そう直接問いただしていたのだった。 「いんや、何も知らない。あのお嬢さんのことは、私はなーんにも知らないよ。何せ今日会ったばかりだからね」  だから、三杯目を、次はゆっくりと舌先で堪能する女性の答えは、僕に若干の苛立ちを募らせるには充分だった。それが表に出てしまっていたらしく、女性はいくらかクスリと笑った後、じわりと口を開いた。 「そう怖い顔をしなさんな。だって本当に知らないんだからさ」 「僕が聞きたいのは彼女の存在についてではなく、彼女の身体のことです」  不自由な身体と明言したのはこの女性自身だ。それなのに何も知らない分からないでは納得なんて出来るはずがない。飄々とした態度を崩さない女性に、僕は募る一方の苛立ちをそのままぶつけていた。 「何か問題でもあるのかい? 私にはそんなに切羽詰まったようには見えなかったがねぇ。大変といったのはそのままの意味だよ、少年」  相変わらずまどろっこしく酒を飲んでいる女性の言葉が、いよいよもって僕を限界に近づかせる。はっきりと分かるほどに血管が脈打ち、今にも破裂してしまいそうだ。  彼女の身体について指摘しておきながら、問題があるのか、だと。ふざけているのか。問題だらけに決まっているではないか。 「確かに大変だとは思いますが、僕が聞きたいのはそういうことではなく」 「じゃあ何が聞きたいんだね? その辺をはっきりと言ってくれなきゃ分かるもんも分かりゃしない」  いつの間にか盃を空にしていた女性は、微笑んだ表情そのままに、抑揚も乏しく問い返してきた。  そう、問い返してきた。ただそれだけだ。ただそれだけのはずなのに、僕はまた金縛りに襲われて全身を強ばらせ、呼吸すらもままならないほどの狼狽に見舞われた。  何が起きたのか、何が起こされたのか、何一つ理解できない。はっきりとしているのは女性の声が引き金になって僕の身体がどうにかなってしまったということだけだった。 「どうなんだい、少年」  女性はただそう、妙に柔らかみのある声を出しているだけだ。恐れを抱かせるものは何もない。ないはずなのに、喉が詰まって声を上げることが出来ない。  実は本当の本当に何も知らず、ただ彼女の動きに敏感にも違和感を覚えて、身体が不自由なのではと思っただけなのではないか。僕が怒りをあらわにしたのはただの身勝手な早とちりで、気づかぬ間にとんでもない無礼を働いているのではないか。いつ凍ってもおかしくない冷水を叩き付けられて冷静さが蘇り、そういう当たり前の考えがようやく浮かんできた。  そうだ。普通に考えればそれが一番自然だ。だってそうではないか、人の身体が人形のものにすげ替えられるなんて非常識極まりないこと、早々解決策が見つかるわけがないし、まして向こうから答えが舞い込んでくるなんてことが起こるはずもない。僕は一体何を焦っていたというのか。いくら毎日のように原因を探ろうと調べものを続けていて、それでもなお見つからないからといって、そのことへの不満感を他人にぶつけるなんて。  今更ながら後悔が押し寄せる。女性にちゃんと謝らなければ……そう思い至った、まさにそのときだった。 「お前さんはなかなかの人形師のようだし、あのお嬢さんは不自由でも幸せなほうだと思うがね。それでも何かあるってんなら、まあ少しくらいは助けてやらんでもないが」  ――この人は今何を言ったのだ。僕の聞き間違いでなければ人形師と言ったのではないか。それも僕に向かって。ここにきて藪から棒に明確な、誤魔化しの利かない単語で僕を表したのではないか。  ぶつけられて滴っていた冷水が足下で氷を張り、全身を恐るべき早さで蝕んでいく感触が、脳髄までをも凍えさせた。 「そうじゃあないんなら、私からは、後ろ髪を引かれないよう気張れと言うのが精々だぁね」 「あなたは、一体、何なんですか」  凍てつく中で辛うじて届いた言葉。僕はもう、震えが止まらなくなった口で、そう訥々と尋ねるのが精一杯だった。  そんな僕をせせら笑うでもなく、女性は淡々と、しかし確かな力強さを持って、こう答えたのだった。 「私かい? どこにでもいるただの魔女さ」   ***    ドアを開け、倒れ込むように部屋に入った僕は、目の前に広がった光景に安堵せざるを得なかった。普段なら呆れて頭を抱えながらため息を漏らすというのに、いよいよ参っているらしい。  結局、あの自称魔女からは何一つ聞き出すことが出来なかった。何をどう聞いてものらりくらりと躱され、ただ疲労ばかりが溜まる時間を過ごすことになった。暖簾に腕押しとはこのことである。 「なんだか、疲れてる? 何かあったの?」  本当なら他に言いたいことがあったかも知れない。しかし、彼女は仰向けの状態でこちらを見ながら、少しだけ表情を曇らせた。 「いや、ちょっと魔女に化かされただけだ。大丈夫」  言うと、わけが分からないと今度は顔をしかめる彼女。それをあえて無視して、僕はトランクを引き寄せた。  中から、まだ実はいくらか余裕があるゴムといつもの作業道具を取り出して、遠くに散らばる彼女の両足を拾い上げる。  魔女が現れて、四人いればトランプも盛り上がるだろうと言い出した彼女は、僕が動くよりも圧倒的な早さで来た道を引き返し、そのままずっと降りてこないままだった。使用人服の女性はそれを気にしていたが、僕はというとこの事態を想定してあえて無視を決め込んでいたのだ。そうせずにさっさと部屋に戻っていればここまで疲れることはなかったのかも知れないと思うと、いくらか悔しい思いがこみ上げてくる。  とはいえそれは後の祭り。終わった後で何を思っても詮無いと、僕はいつも通り、彼女の修理に取りかかった。