無銘図書館

人形と人形師・第三話

第三話『人形師の憂鬱』    肝心なところで下手をして痛い目を見るのは、どうやら僕の性分というか短所らしい。彼女がバラバラになったことについてもそれは間接的な要因になり得ているし、それ以外にも色々と心当たりがある。今回に関しては彼女を元通りにすることばかりに気が向いていてそれどころではなかったと言い訳できなくもないが、やはりそれはただの言い訳にしかならない。後悔先に立たずとは言い得て妙である。  もっと言い訳をしていいのなら、僕等は普段旅行なんて行くことがなく、買い物や特別に用事がない限りは家に籠もりきりの、とてもではないが健康的とは言い難い生活を送っている。それは勿論彼女の身体のことが理由の大半を占めているわけだが、僕自身の職業柄や性格にも起因している。そんな僕等が旅行に出かけているというのはある種の異常事態であり、であるなら充分に注意をして然るべきところであったのだが、あまりにも彼女が普段通りすぎた。まさか来て早々見た目だけ惨劇の騒ぎを引き起こすだなんて誰が予想できただろうか。  ……そろそろ言い訳も終わりにしよう。何のことはない、食事のことについて、僕は館の主に伝え損なったのだった。   ***    部屋に備え付けの黒電話が鳴り響いたのは、丁度彼女を直し終えた直後のことだった。いくら慣れているとはいえ流石に全身ともなると三十分は時間を要してしまうもので、僕はそれを無事やり遂げた達成感と疲労とで、篠突く雨を背景音に半ば微睡みつつあった。そんな中に全く出し抜けにあの独特のコール音を耳にしては驚きを禁じ得ないのも無理からぬことではある。 『お食事は午後六時半頃にご用意いたしますので、お手数とは存じますが一階の食堂にお越しください』  受話器の向こうから聞こえた女性の声は、確かそんなことを言っていたと思う。確信を持って言うことが出来ないのは、彼女を直す以前に溜め込んだ、ここまでに辿り着くために歩いた道に原因がある疲労のためで、僕はほとんど条件反射的に「分かりました」と答えたようだった。驚きはしても頭は覚醒に向かわなかったらしく、結果として直前になるまで自分の失態に気づくことなく、あまつさえ転た寝すら決め込んでいたのだから最早救いようがない。状況に気づいたときには既に遅しで、軽く覚悟だけを決めて降りるしか手段が残されていなかった。  彼女は食事ができないことは今更確かめるまでもない。普段だって用意するのは一人分の食事で、それは他でもない僕自身が食べ、彼女はその隣乃至正面でそれを眺める。それが僕等の日常である。 そして、僕等の日常は多くにとっての非日常でもある。こちらの事情を何も知らない第三者が僕等の食事を作ることになったとして、果たして一人分しか用意しないということが起こりうるだろうか。しかも旅館で。 「まあ、頑張って」  なんて隣でにこやかにしている彼女が実に恨めしい。と同時に、彼女に対する申し訳なさもこみ上げてきてなお気分が重くなった。  食べられないというのに目の前に並べられる自分のための食事。飲み込むことが出来ない以上ただ見ることしかできないそれらを前に、彼女が何も思わないとは到底思えない。救いがあるとすれば、彼女が嗅覚も失っているということくらいか。もっとも、それが本当に救いなのかは随分と疑わしいものではあるが。  まあ、何はともあれ。決して大食漢とは言えない、むしろ小食と言って差し支えない僕は、どうやら二人分の食事を摂る羽目になりそうだという現実は覆しようのないもののようだった。   ***    食事を残すなんて真似は、残念ながら僕にはできない。それもまたあの頃の経験によるものではあるが、そうでなくともせっかく用意されたものを残すなんて行為は失礼以外の何物でもないだろう。だから、多少無理であってもそれを通して食器を空にする覚悟は部屋を出たその瞬間に決めていた。だというのに―― 「……参ったな」  館の主たる女性が待っていた部屋で口を突いて出た言葉は、思いの外重い音だった。女性は一礼してすぐさま奥に何かを取りに行ったようで、彼女にそれが聞こえなかったことを、心底有り難く思う。  耳の奥を耳障りな甲高いノイズが鳴り響き始め、我先にと鼓膜を激しく揺さぶる。さして暑いわけでもないのに汗が噴き出し、目眩すら覚える。一瞬身体がぐらつくのも感じたが、流石にそれは拙いと意地だけでどうにか踏ん張った。  隣で彼女が何やら言っているようだが、小声なのかそれともノイズが邪魔してか上手く聞き取れない。ただ、あからさまに不安そうな色を浮かべた彼女の顔が見えて、相変わらず嫌な汗は浮かべたままだったが無理矢理に笑顔を作った。  しかしまあ、正直なところそれが精一杯な状況ではある。どれだけの時間が経とうともあれは生理的に受け付けることができない。それが今目の前に鎮座しているこの事態に、果たして僕にそれ以外の対応ができただろうか。  彼女と並んで用意されたテーブルに着く。間接照明と蝋燭だけが部屋を照らし、ノイズの合間を縫って、静かな、ゆっくりとしたピアノの旋律が聞こえてくる。女性がワインとグラスを持って出てきてもその音は鳴りやまず、どうやらレコードか何かで流しているらしい。だが、そんな音色もワインの匂いも、今の僕には何の感想を抱かせることはなかった。ただ、二人に不穏な気配を気取られぬようにするのに必死で、ワインを注いでくれた女性に『ありがとうございます』と会釈するのが精々だった。  僕自身に何事もなければ、この組み合わせはきっと至高なのだろう。並べられている料理のどれもがその姿だけで食欲をそそるに違いない。けど僕には、あの大皿に堂々と居座るあれが全てを台無しにしているようにしか見えなかった。事実、僕はそいつのせいで完膚無きまでに食欲をそがれてしまっていたのだから。  あの頃までならなんてことはない、むしろ好んで食べていたもの。そして、今となっては最早ただの下手物でしかないもの。何年経とうともこれだけはどうしても克服できない。  白状しよう。僕は肉料理がまったくもって、どうしようもないほどに食べられないのだった。   ***    十五年以上前の話になる。あのとき僕の目の前で引き起こされた出来事のせいで、一時期軽度の拒食症を患い、それを克服した今でも肉だけはどう足掻いても口に入れることができないでいる。一人暮らしを始めて今日に至るまで、僕は肉料理を作るどころかスーパーの牛肉コーナーに足を踏み入れようともしなかった。  克服する気がないのか、と問われれば、そうだと答えるしか術はない。そもそも僕自身は克服できるものだなんて思っていないので、それ以前の問題ではあるが。そんな逃げの一手の姿勢に見えざる何かが一喝でも入れようと思っただろうか。だとしたら余計なお世話、断言して完全に迷惑な仕業だ。 「あの……もしかしてお嫌いなものがございましたか?」  一向に食べ始めない僕等を気にしたらしく、女性が弱々しくそう言うのが聞こえた。  すでに料理は用意されていて席にも着いているというのにこのままああだこうだとずるずる考えあぐねいていても仕様がないし無様だ。それに女性にも申し訳ない。そう頭では分かっていても、僕の身体は一向に食器を取ろうとしない。それどころか、だんだん視界と意識が白濁としてきて―― 「あ、すみません。あんまり美味しそうだったからちょっと見とれちゃって……それじゃ、いただきます」  ――その声は、あからさまに僕の横っ面を殴り飛ばし、煮え切らない頭と心を盛大に揺さぶってくれた。おかげで霞が吹き飛び、ぼやけた視界も回復はしたのだが。  今、誰が、何と言った。あの日以来聞くことがなくなっていた、ひどく懐かしい、だが決してあり得ない、いやあってはならない響きではなかったか。  混乱は一瞬のうちに。僕は女性の目があることを忘れて瞬く間に彼女の方を向いていた。だが、結局その一瞬の混乱が致命的な遅延だったらしく――  彼女は、左手に握ったフォークでもって、僕には醜悪な塊にしか見えないその肉を口に運んでいた。    彼女の幸福に満ちた表情を見て女性も安心したらしく、『奥に控えておりますので何かございましたらご遠慮なく』と一言添えて、使用人服のスカートを翻した。後に残されたのは唖然も呆然も通り越して再び意識が遠退きかけている僕と、何やら口をもごもごとさせている彼女の二人だけ。  いや、目眩を起こしている場合ではない。 「なんて無茶するんだ」  そんな説教じみたことを言っている場合でもないし、そもそもそれを言う権利は今の僕にはない。それでもそう言ってしまったのは、自分の不甲斐なさが骨身に染みすぎてこらえきれなかったからだった。 「やっぱり、何も味、しないや」  そんな僕を窘めるでもなく、まるで三文芝居を見た直後のように淡々と漏らした彼女。あまつさえ笑顔を浮かべ、どれだけ噛んでも飲み込むことが出来ないそれを口の中で転がしていた。  その姿は、僕にはあまりにも痛々しかった。彼女にここまでさせてしまった自分の愚かさと彼女への申し訳なさ、そして、こらえきれずはき出したのに未だにこびりついて離れない不甲斐なさがない交ぜになり、余計にわけが分からなくなってくる。前後不覚、とでも言おうか、とにかく心臓が立てる脈動がいやにうるさく、気づけば、 「ん……ぁ」  彼女の唇に、強引に喰らいついていた。  いきなりの光景にか一瞬身体を戦慄かせた彼女の頭を抱え込む。絹の髪をくすぐるように撫でつけ、指先で転がすように絡ませる。その頃には彼女も大人しくなり、僕はまた、今度はまさぐるように艶やかに光る髪の中に手を滑り込ませた。  彼女から反応が返ってこないのが、幾分口惜しい。それでも目を開けば穏やかに瞳を閉じる彼女が目の前にいて、ようやく僕は心を落ち着かせることが出来た。  口と舌を動かし、壊さないように彼女の口を開いていく。硬い粘土で出来ているはずの彼女の唇は、やはり人のそれとは違う感触だったが、それでもどこか暖かく、柔らかみを感じずにはいられない。  彼女を殊更慎重にうつむかせると、途端にどろっとしたものが口を伝い、僕の中に入ってきた。ほのかに熱を帯びるそれはいくらか這いずったかと思うと、そのままずるずると喉に流れ込んでくる。静かに飲み下し、それでもなお流れてくるそれを、今度は舌でゆっくりとすくい取る。少しだけ転がしてみて、再び喉へと。時折欠片がある以外はまるで粘液を思わせるそれを飲み続けているうち、何やら形容しがたい感情が沸々とわき上がってくるのを感じた。それは飲み込むにつれてふくれあがり、彼女の口から何も流れてこなくなる頃には、こらえるにはあまりに大きく、また強くなっていた。  このままこの感情に身をゆだねてよいものか。何も感じない彼女に対するある種の冒涜ではなかろうか。そんな考えが頭をよぎり、だが結局はこらえきれなくて彼女の口の中に舌を伸ばした。まだ口の中に残っているであろういくらかの欠片をさらうためだと言い訳をしながら、貪るように、撫で回すように、ぬぐうように。飾りでしかない彼女の舌の思いがけないざらついた感覚に鼓動が跳ね上がり、背筋に氷を宛がわれたかと思うほどに寒気が走った。だがそれは決して嫌悪する感覚ではなく、むしろどういうわけか僕の中には嬉しさだとか喜びだとかいったものが芽生えていた。  一番単純な答えはきっと、彼女が人間である証がそこにあったように感じたからというものだろう。その感触が消えぬうちに、最後に彼女の唇をついばんでから、ようやく僕は彼女を解放した。 「――終わったよ」  そう一言つぶやいて、誤魔化すように居住まいを正す。まだ早鐘を打つ心臓を気取られぬよう小さく息をついて横目で彼女を見やると、惚けたようにはにかむ彼女と目が合って、僕はまた、少しばかりの狼狽を覚えた。  だが、そう慌ててもいられない。目の前にはまだ手つかずの料理が山のように盛られているのだ。あまり急ぐ必要もないにせよ、いつまでも手をこまねいていていいというものでもない。  よし、と努めて小声で漏らし、手を伸ばす。ついさっきまでそちらに動くことのなかったそれは、今度は何ら抵抗の意を見せることなく、実にあっさりと一対の銀食器に辿り着いた。それを操り、眼前に横たわる塊にフォークとナイフを入れる。紙のようにいとも簡単に、しかしそれでもナイフ越しに伝わってくる確かな弾力にまた僕の臆病が鎌首をもたげたが、負けてはいられないと口元を引き締め、切り取ったそれを口の高さまで持ち上げた。  大丈夫、さっきはちゃんと飲み込めた。こんなものはなんてことはない。大丈夫、大丈夫と心の中で呪文を繰り返し唱え、意を決して口の中に含んだ。  ――その瞬間。足下から這い上がってくる汚泥とあの光景に心が飲み込まれそうになった。  口の中に広がったのは正しく虫酸。他に名状のしようがないほどの、反吐にすら劣る最悪の汚物。克服できたのだと錯覚した僕を嘲笑い、頬の裏舌の裏歯茎の裏を蛆が這いずり回る。歯を食いしばると、その間に挟まれた塊が断末魔の体液をまき散らした。まさに苦虫を噛み潰した気分。その体液からは更に新しい蛆が生まれ落ち、あらゆる場所を蹂躙する。吹き出て流れ落ちる汗ものたうつナメクジに思えて、胃液が喉をせり上がってくるのを弥が上にも自覚せざるを得なかった。  頭に浮かんだのは地獄絵図。蓋をして鍵をかけ、奥底の更に隅においやったはずのあの日の景色。あのときのにおいまでも鮮烈によみがえり、逆流を加速させた。  慌てふためいて、ワインがたゆたうグラスに手を伸ばし、一息に流し込む。口の中を喉の奥を洗い清め、口に溜まった虫共々胃液を押し返す。普段から酒は飲まないので味なんて分かるはずはなかったが、今の僕にとってそれは聖水に違いなかった。  目眩がする。それは不慣れな酒を一気にあおった結果か、それとも下手物を胃に落とした代償か。視界が妙にぼやけ、音も少し遠い。彼女の声がかすかに聞こえたが結局何を言っているのかは理解する以前に聞き取れず、僕はまた『大丈夫、大丈夫だから』と莫迦のひとつ覚えのように繰り返した……のだと思う。正直意識をつなぎ止めることに夢中でそれ以外のことにかまけている余裕はなかった。  残してしまおうか、こっそり持ち帰ってどこかに捨ててしまおうか。そんな誘惑がじわじわと迫ってくる。それを選べたらどれだけ気楽なことか。だが――  肉を食べる行為を邪魔するのがあの頃の経験なら、食事を残すという行為を許容できないのもあの頃の経験だった。そして、これもやはりあの頃とその後が影響しているのだが、誰かが作った料理を、あろうことか彼女の目の前で食べ残すなんて真似は、そもそも僕の中に選択肢として用意されていなかった。   ***    どうやって部屋に戻ったのか。朦朧とした頭がようやくある程度回復したときにはすでに部屋の扉を開けていた。そこで完全に糸が切れたのだろう、急激に襲いかかってきた吐き気を抑えきれず、備え付けのトイレになだれ込んでいた。  膝から折れ便座にもたれかかると、堰を切った胃液が我先にと押し出されていく。消化し切れていないものが喉を遡り、口から嫌な音を立てて落ちていき、それでも足りないのか、鼻からも鼻水とは違うものが流れ出ているようだった。焦点が定まらないのも、もしかすると涙腺から涙とは別のものが流れているからなのかも知れない。 「ちょ、大丈夫!?」  遅れて帰ってきたのか、彼女の声がそう聞こえた。最早大丈夫だと答える余裕すらなく、それ以前に喉は未だに吐瀉に必死で、声を出すなんて真似は出来そうもなかった。  不意に、背中に硬いものが当たる。硬いながらもどこか暖かみと柔らかさを感じるそれが彼女の手だと気づくと、不思議と気分が少しだけ和らいだ。それでも身体の感覚は遥か彼方で言うことを聞くそぶりすらなく、ひたすら胃に溜まった異物の排除に躍起で、溶け出した毒素すら丸ごと取り除こうと胃を痙攣させ、喉をひくつかせている。もう戻すものなんて何もないのにえずき続けて、胃の中を本当に空っぽにする魂胆らしい。 「は――だい、じょうぶ……もう、収まるから」  だがそれも長くは続かず、徐々に自由が戻ってきた。やっとの思いで彼女に答えた僕は、最後のひとしずくを押し出して唾液と一緒に吐き捨てると、僕はそのまま、少しだけ意識を手放した。  結局彼女にいらぬ心配と迷惑をかけてしまった。そう慚愧しながら。