無銘図書館

人形と人形師・第二話

第二話『人形と人形師と洋館』    蝉が鳴き喚き、日差しが槍のように突き刺さる中、人里離れた山奥にあるやけに古ぼけた洋館を訪れたのは、何も吸血鬼探しや肝試しなんて理由ではない。そもそも僕は吸血鬼の存在なんて信じちゃいないし――信じている人間がいるかどうかも怪しい――、幽霊は多少は信じるところも無くはないが、それでもやはりどちらかといえば信じていないほうの人間だ。幽霊を信じていない人間は得てして幽霊が怖い人間であるという話を聞いたことがあるが、僕の場合は全くその通りで単に信じたくないだけだったりするのだがそれはさておき。そんな僕が、雰囲気だけは完璧すぎて怖気が走るこんな場所にやってきたのには歴とした理由と目的がある。 まあそうなったのも何もかも、発端は彼女なのだが。  さて、僕は今、その洋館の一室にて、右手の親指と小指でもってこめかみを締め付けている。そうでもしていないと血流が暴走して頭の血管がことごとく爆発しそうだった。全身が嫌というほど戦慄き、心臓が異様なまでにうるさい。  何故こうなってしまったのか。原因もその理由も明白だし最悪の事態として現状を考慮していないわけがなかったが、それでもこれはひどすぎる。考慮していた最悪の事態にどうして直面しなければならないのか。できることなら何事もなかったかのようにこの場を立ち去りたい。それが叶わないのなら、せめて誰か、これを夢だと言ってくれ。 「……どうしよう」 「しばらく黙ってて。蹴り飛ばしたくなるから」  その願いすら彼女の弱り切った声によって水泡に帰した。残酷な現実に対して僕ができる抵抗といえば、精々抑揚を消した声を出して怒りを表現する程度のことだけだった。  他にできることがあるとすればそれは、ありとあらゆる関節が全部まとめて外れてしまって、見事なバラバラ死体と化しているにもかかわらず口を利いてきた彼女をどう扱ったものかと考えることだろうか。   ***   「旅行がしたい」  時刻はもう深夜と言っていい時間帯。仕事の仕上げに取りかかっていた僕は、やおら部屋に入ってきた彼女の突拍子のない言葉に『ふーん』と一言だけ返して、そのままテーブルから顔を上げずにペンを走らせた。よし、このペースなら日の出前には上がるだろう。予想よりも早く終わりそうなことに若干の歓喜を覚えながら、彼女のほうには一切目を向けず、ひたすら、それだけが機能だと言わんばかりに原稿との睨み合いを続けた。 「旅行がしたい!」 「ふーん」  今日は実にペンの乗りがいい。普段ならああでもないこうでもないとうなってしまうようなところでも、一向に止まる気配がない。まったく、いつもこんな調子なら大助かりなのだが。 「旅行がしたい旅館に泊まりたい大自然を一望しながら露天風呂に入りたい!」 「ふーん」  もうこれで打ち止めなのかと思えるほどの勢いだ。これは今のうちに次の分もやっておいたほうが後々のためかも知れない。次にいつこの勢いが出せるか分かったものではないし。できる限りやっておきたいところだ。 「旅行がしたい旅館に泊まりたい大自然を一望しながら露天風呂に入りたい美味しそうな料理を眺めたい一枚の布団で二人くるまって寝たい!」 「最後だけ何でそうなるのさ」  そこだけはどこに行こうが関係ないだろうに。というか、この家、いや部屋というべきか、とにかくここには寝室は一箇所しかない上、ベッドとテーブルで布団を敷くゆとりはないものだから、普段から僕らは一緒のベッドで寝起きしているのだが、果たしてそれと何が違うというのか。 「布団がいいの! ベッド飽きた!」 「じゃあ今度買い換える」  彼女のわけの分からない言い分に答えながらもペンは進み続ける。さらさらと、あれよあれよという間に文字が躍っていく。 「いじめだ……」  ただ、いい加減彼女の声がかげりだしたのを聞いて、心のほうはさほど踊ってはいなかった。年に数回あるかないかの進捗に、本当なら諸手を挙げて喜びたいところではあるが、そうはいかないのが僕という生き物らしい。  よく言えば繊細、悪くいえば単純、そんなところか。それに、それこそ言い方は悪いが彼女をいじめるのにも飽きが来た。 「……これが終わったら、少し長い休暇がもらえるから」  本当はそんな約束なんて取り付けていない。向こうとしてはこれが終わり次第次に取りかかってもらう腹づもりであろうことは今までの流れで容易に想像ができるし、彼女の言葉がなかったら僕としてもそういうつもりだった。先方に何と言ったものか、また言われるものか……途端に笑顔をこぼした彼女の隣で、僕はそっとため息をついた。   ***    僕の不安に反して、先方の答えは実にあっさりとしたものだった。曰く、働きすぎではとは常々思っていたのでむしろこっちからお願いしたいくらいだった、だそうだ。そういうわけで予想していたよりも長い間、具体的には一週間ほどの休みをいただいてしまった僕は、早々に、相談もなしに決められてしまっていた宿泊先の連絡先を伝えてから、これまた勝手に荷造りを済ませてしまっていた彼女を伴って宿がある山へとやってきたのだった。  左手には彼女と僕の荷物一式。彼女が転んでしまわないようにと彼女の腕を右手でしっかりと掴んでの山歩きは、存外堪えるものらしい。元々体力には全く自信がない僕にとっては当然のことなのだが……なぜこんな場所を選んだのか、少しばかり彼女を恨みたくなった。  僕は至極夏らしい薄手の半袖ワイシャツと緩いジーンズ。風通しはいいのだがいかんせんこの暑さではどうしようもなく汗が噴き出し、インナーやらズボンやらに染み込んで気持ち悪いやら重たいやら。  一方の彼女は、薄手とはいえ長袖の薄い青色をしたワンピースだ。ともすれば僕よりも暑くなりそうな出で立ちだが、彼女は汗一つかかず、夏山の光景を鼻歌なんて歌いながら楽しんでいる。  まあ、彼女が長袖なのも汗をかいていないのも、全ては人形の身体が原因なのだが。人形の身体に汗をかく機能がついているわけがないし、ノースリーブや半袖では球体関節がもろに露出してしまう。薄手を選んでいるとはいえ真夏に長袖というのは見た目からして暑そうだが、こればかりは仕様がない。  もうどれくらい歩いただろうか、ようやく木々が開け始め、やがて目的の建物が見え始めた。そのまま進み、とうとうその全容が明らかになったのだが―― 「旅館、ねぇ……」  断言しよう。今目の前にそびえ立つこれは、絶対に旅館と呼べる代物ではない。まず和式でない時点で論外だし、そもそも宿泊する場所とはどうしても思えなかった。  黒を基調とした石壁を覆うのは見事なまでに育った蔦で、見る限りでは館の全体を彩ってしまっていた。はめ込まれた窓の向こうには、まだ昼下がりで太陽光が燦々と照りつけているということを差し引いても暗すぎる空間が広がっている。足下に広がる芝生だけは綺麗に整えられてはいるが、それが、かえって館の異様さを際だたせていた。  大丈夫なのだろうか、ここ。まあそんなことよりも、他に不安要素は色々とあるのだが。 「さてと。約束、大丈夫だろうね?」 「大丈夫、任せなさいって」  ……本当に大丈夫だろうか。そりゃ、彼女が旅行したいと言い出した以上、最大限の注意と努力を払ってくれるものと信じたいところではあるが。  人形である彼女の身体は、こちらの予想を大きく外れてとても壊れやすい。少しの衝撃にだって関節が外れてしまうことがあるし、強か打ち付けようものならヒビだって入ってしまう。幸いなのは彼女に痛覚、正確には聴覚と視覚を除いた、つまりはほとんどの感覚が存在していないことで、どんなに壊れようとも死ぬことがないし、僕もあれこれと言いながら慌てずに直すことができる。  ただそれは、人目がないことが大前提だ。万が一誰かに彼女の身体のことが知れたら何が起きるか分かったものではない。もしここで彼女が何かをしでかして身体を文字通り壊し、それを他人に見られでもしたら――それ故の約束。内容は至ってシンプルだ。  不用意にはしゃがない。  極力でいいから僕の目が届く場所にいること。  僕がいないときは部屋でじっとしていること。 「道具は持ってきていないからそのつもりで」 「え!?」  僕は不要なものは持ち歩かない主義だ。荷物を増やしてまで余計なものを持っていこうだなんて考えは持ち合わせていない。その代わり、必要と感じたものは是が非でも持って行くことにしているが。 「で、でも、もし何かの弾みで、例えば足とかが外れたら……」 「ああ、ご愁傷様」  不安がる彼女の声を一蹴する。その後もうだうだと何かを訴え続ける彼女をとことん無視して、半ば強引に彼女の手を引いて洋館へと足を踏み入れた。  外見に反して、内装は思いの外しっかりとしていた。もしかしたら外のあれはあえての装飾だったのだろうか。まあ冷静に考えれば、宿泊場所として存在している以上は当たり前のことなのかも知れないが。  この洋館を管理しているのは、どうやらたった一人の、ぱっと見僕らと同年代の女性だった。装いに合わせたのだろう中世ヨーロッパを思わせるシックな使用人服を身にまとい、暖かみを感じずにはいられない柔らかな微笑みでもって僕らを迎え入れてくれたその女性曰く、すでに部屋は用意済みとのこと。僕らは挨拶もそこそこに、だだっ広い階段をのろのろと進んで目的の部屋の扉を開けた。  瞬間、隣から惚けたような吐息が聞こえた。それは言うまでもなく彼女の声であり、僕もまた、部屋の様相を見た瞬間に時間をさかのぼったかのようなめまいを覚えた。  目につく調度品はどれも古めかしい色合いをしていた。とはいえそれは、くすんでいるという意味合いではなく、行き届いた手入れの見事さと経年によって得られる独特の味わい深さを醸し出している、という意味である。照明は全て間接照明で統一されていて、その一つ一つが得も言われぬアクセントを加えていた。 「ね! 来た甲斐があったでしょ!」  それを見て黙っていられる彼女ではなかったらしい。僕の手を振り払って部屋を走り回り、舞い踊ってはあれがどうとかこれがどうとかいちいち感動してみせている。その姿は、まあ普通なら微笑ましいものとして映るはずだった。だが、 「約束、早速忘れてない?」  彼女は普通ではなく、僕にしても世間一般の常識からは多少逸脱している。生きる人形とその人形師、そんな関係なのだから当たり前だ。そして、再三繰り返しているように彼女の身体は予想に反してひどく脆い。それこそ何かの弾みで壊れかねないほどに。そのためにはしゃぐなと前もって釘を刺しておいたというのに。道具を持ってきていないと言った意味が分からないほど、彼女も莫迦ではないはずだ。   ***    そう思って一端部屋を出たのがそもそもの間違いだった。何のことはない、彼女は言葉の意味が理解できないほどに莫迦だったのだ。諸々の確認のために女性がいるであろう階下に降りようとした瞬間、背後で鳴り響いたけたたましい音には、流石に驚きを禁じ得なかった。すぐさま踵を返して音が鳴った方向、つまりはついさっきまで僕がいた部屋にとって返してドアを開けると、そこに広がっていた光景に頭を抱えてしまった次第である。  何をやったらここまで分解できるのか。確かに衝撃に対する彼女の強度はお世辞にも高いとは言い難いが、それでも全身分離というのは行きすぎだろう。もしかすると僕がこれまでに行ってきた修理に不手際があったのだろうか。  ちなみに着てきたワンピースは、それらパーツ群の中心に脱ぎ散らかされている。いや、正確には着たまま散らかされていると言うべきか。何せ彼女の胴体は、未だそのワンピースを着込んでいるのだから。シュールといえば、まあシュールだ。  そんなことを考えていたせいだろう。僕は僕自身の失態に気づくことができなかった。油断していたと罵られても仕方ないとんでもない失態に。 「どうかされました!? 今すごい音が……!」  その声を聞いたあとではもう手遅れ。ドアを閉めていなかったことに気づいたときには、もう彼女の惨状を使用人服の女性に見られてしまっていた。すぐ後ろで息をのむ音が聞こえ、頭を抱えたままどうしたものかと、最早癖になってしまったため息を漏らしていた。  ――よし。 「だから置いていけっていったのに……」 「え?」  見られてしまった以上、なんとしてでもこの状況を乗り越えなければならない。いつまでもうなだれていては開けられるらちも開かなくなると、あきれたふりをしながらつぶやいた。  いや、本当は本当に心底からあきれ果てていたのだが。 「あ、ああ、あれ人形、ですね。びっくりしました……」  そりゃ僕もびっくりした。まさか到着から僅か数分で約束が破られるなんて考えもしていなかったのだから。その挙げ句こんな事態に陥ったとなれば、感動すら覚えてしまう。 「お連れの方にとてもよく似ていましたから。はしたないところをお見せしました」  言った女性に振り返ると、なんともまあ綺麗な姿勢の辞儀を見ることができた。背筋は伸びきり、腰は折りすぎず上がりすぎず、スカートの先からかいま見える足先はしっかりと揃えられ、さほど荒れていない手は腰の前で組まれている。  ああ、貴女のそのお淑やかさというか落ち着き、ほんの少しでいいから、彼女に分けてあげて下さい。 「いえ、こちらこそお騒がせして申し訳ありません」  そんな女性に返せるものといったら、最大限の笑顔が精々だった。学生時代のバイトで培ったよそ行きの笑顔がこんなところで役に立つとは、人生とは分からないものだ。  とにかく第一段階は無事終了した。といっても女性がこちらを先回りして勝手に話を進めてくれただけなのだが。 「ここは僕が片付けておきますので」  というか僕以外の人間に任せられるわけがない。信頼とか信用とかの問題ではなく、それが道理だ。彼女の世話係兼人形師であるところの僕が負う義務といってもいい。 「そうですね……私が扱って壊してしまってはご迷惑でしょうし――それにしても大きな人形ですね」  聞かれる可能性は勿論考慮していたが、痛いところを突いてくれるものだ。そりゃ、彼女自身の身体なのだから大きくて当然なのだが、流石にそれは口が裂けても言えない。 「特注らしいです。何でも双子に生まれたかったとかで」  我ながら苦しすぎる。双子がいいからと自分と瓜二つの人形を作らせる人間なんて、果たしてこの世にいるのだろうか。それも等身大の人形を。僕なら納得しかねる言い訳である。 「ああ、なるほど」  それでもこの女性にとっては充分納得できる理由だったらしい。あるいはあまり聞かないほうがいいと踏んでくれたのだろうか。いずれにせよ女性はそれ以上の追求をしようとはせず、ただ『何かございましたらどうぞ遠慮なさらずにお呼び下さい』と残して部屋を去っていった。  さて、と、今度は確実に扉を閉めて、改めて現状を確認する。  多少乱れたベッドメイクに放置されたままの手荷物。床には見事なまでに散乱した五体。確認するまでもないと思ったが一応尋ねておくことにした。 「何したの」 「えっと……」  流石に首だけでは動くことも叶わず、三白眼を作ってようやく僕と目を合わせた彼女。正直首だけでそういう表情を作られるとホラー映画を連想してしまって寒気を覚えるのだがこの際は仕方ない。 「ごめんなさい」 「な・に・し・た・の」  必要なのは謝罪ではなく現状報告だと、限界ギリギリまで黒目を下に向けて睨み付ける。それだけだというのに彼女の表情は一瞬にして強ばり、頭だけで器用に振るえてみせた。血が通っていればきっと青ざめていることだろう。 「えっと、その……ベッドで飛び跳ねてたら、足が滑って……」  子供か君は。というかベッドは飽きたんじゃなかったのか。 「ど、どうしよ、道具、ないんだよ、ね……?」  完全におびえきった彼女の声に再びのため息で返す。まったく、彼女の奔放さにもだが、それよりも何よりも僕自身のお人好しさにいい加減嫌気がさしてきた。そういう性格に生まれてきたのだからと腹をくくるしかないのだろうか。  彼女の脇、といっていいのかは疑問だが、散乱するパーツを踏まないように歩き、大きめのトランクに手を伸ばす。見た目通りの重さをはっきりと返してくるそれを持ってベッドまで移動すると、すぐさまそれを開けた。  僕は不要なものは持ち歩かない主義だ。荷物を増やしてまで余計なものを持っていこうだなんて考えは持ち合わせていない。その代わり、必要と感じたものは是が非でも持って行くことにしている。たとえどんな大荷物になろうとそれがいるものなら労力は惜しまない。そしてこれは、労力を惜しんではいけないと言ってもいい代物だった。 「次バラバラになったら、今度は本当に知らないからね」  ゴムの交換というのはなかなか大変な作業で、たった数本のゴムだけで関節全てを支えるという単純な構造であるが故に、一箇所が切れてしまえばほぼ全部を交換しなければならなくなる。というか、大概の場合は一箇所が切れれば全身がバラバラになってしまう。彼女の場合は僕が素人なりに少しずつ改良を加えているからそういう事態は滅多には起こらないのだが、その分手間は増えてしまっていた。それをよしとするのかあしとするのか……とにかく今は彼女の修理が先決だと、取り出したゴムやら針金やらをベッドに置いて、彼女の頭を抱え上げた。 「もうはしゃぐな、とは言わない。言っても無駄みたいだし」  思えば昔からそういう性格だった。大人しくしていろと言われてそうしていたのは葬式のときくらいで、それ以外でとなるとなかなか思い当たらない。外に遊びに行くと十中八九泥かすり傷と一緒に帰ってくるから待つ身としては気が気じゃないと、よくおばさん達が愚痴をこぼしていたっけ。 「自分の身体は大切に扱ってほしい。はしゃいでもいいから、それだけは守って」  痛みを忘れた側にしてみれば、別に壊れても直してもらえるから問題ない程度にしか思っていないのかも知れない。けど、僕にとっては他に類を見ないほどの一大事なのだ。散々手足の離脱を見てきた僕でも、流石に全身ともなると穏やかでいられるわけがない。  実を言うと、別段今回が初めてではないのだ。こんな事態が起こるのは。最初の頃は毎日のようにこんな状態に陥っては修理を繰り返してきた。そのおかげで、というのも変だが、彼女がある程度自分の身体に慣れ、そこそこまともに動けるようになる頃には、僕の修理の腕もそれなりにはなっていた。  だからといってこんなこと、早々慣れるわけがないし、慣れたいとも思わないのだが。  僕のそんな考えが伝わったかは分からない。しかし彼女がより一層縮こまって目をそっと伏せたことだけははっきりと確かめることができた。 「先に身体を組むから、待ってて」  割れ物を扱う手つきで彼女の頭をベッドに下ろし、最後にさりげなく、誤魔化すように髪をすいた。  平静を装うことそのものは割と慣れている。だが平静を保つことに関してはどうにも苦手だ。今だって一瞬でも気を抜けば荒れる感情が露見し、彼女に思うままの怒りをぶつけてしまうだろう。彼女の髪に触れたことでいくらか和らいだ気がしたが、結局それは気休めでしかなかった。  僕は小心者なのだ。臆病者と言い換えてもいい。いくら死ぬことがない人形の身体といっても、彼女の身体がバラバラになっているのを見て落ち着いていられるわけがない。もし、万が一にも、彼女がこのまま動かなくなってしまっていたら――そう思うと頭に来ずにはいられなかった。  気を紛らわせようと身体が勝手に思ったのだろう。気づけば窓の外を見ていた。鬱蒼とした森が延々と広がり、その向こうにあるであろう町の様子はうかがい知ることはできない。ただ、彼方の空に立ちこめる憂鬱な暗雲が見えて、雨が近いことを僕に語りかけていた。