無銘図書館

人形と人形師・第一話

第一話『人形と人形師』   「突然だけど、溜まってない?」  食事時――といっても彼女は食事を摂らないから僕一人の夕食だが―だというのに突然そんなことを隣でささやかれて、せっかく口に入れたキャベツの千切りを盛大に吹き出すところだった。 「そういう発言はせめて前置きを入れてからしてくれると助かるんだけど」 「だから、突然だけどって言ったじゃない」  その直後間髪入れずに本題に入るのは前置きとは言わないのではないだろうか。心の準備も何もあったものではない。 「で、どうなの?」  無視してほぐした魚を口に運ぼうとしたところに再びの彼女の言葉。更にその冷たくて硬い指で手首を掴まれたものだから、僕は食事の中断を余儀なくされた。 「なんでいきなりそんな話になるのさ」  どうと言われても、別に僕は性欲の塊ではないし、これといって自覚症状もないのだが。興味がないわけではないが強いて求めているわけでもない。後の世で草食と呼ばれそうな部類の人間であると自負している。一体、彼女は何を持ってそんなことを聞いてきたというのか。もしかして、知らないうちにそういう雰囲気を築き上げてしまっていたのだろうか。そうだとしたら由々しき事態ではある。 「ほら、私はこんなだし、半年以上もご無沙汰じゃない? 浮気している感じもないし、ティッシュが大量消費された気配もないから、大丈夫かなぁって」  などとまくし立てる彼女を尻目に、空いたままの左手で味噌汁に手を伸ばした。すると今度は、そちらの腕までも彼女に掴まれてしまい、完全に身動きがふさがれてしまった。  いや、食事くらいしながらでもいいじゃないか。何故に一々妨害してくるのか。せっかくの味噌汁が冷めてしまったらどうする。  ……というか、体勢的に彼女の顔が目の前にあるものだから、少々照れくさい。 「いや、取り立てては」 「そんな……!」  取り繕うようにして答えた僕に、彼女は悲鳴にも似た声を上げた。いや、何故驚く。もしかして僕は、本当に彼女から色欲の権化とでも思われているのか。心外もいいところだ。 「いや、でもほら、健全な男子たるもの、一日何もしないだけでこうヤバ気な欲望がモクモクと」 「思春期真っ只中じゃあるまいし……」  思春期真っ只中だってそこまでひどくはならないだろう。少なくとも僕はそんな経験はない。まあ、今よりも性というものに関心があったのは確かだが。  さて、いい加減読めてきた。僕も伊達や酔狂で彼女との付き合いが長いわけではない。 「要はどうしたいわけ? 僕がどうこうじゃなく、君が何をしたいかってことでしょ」  唇がついてしまいそうな距離は相変わらずで、そのことを何とも思わないほど老成もしていない僕は、やはり心臓の鼓動は暴れっぱなしだったが、それでも普段通りを装って、努めて淡々と口にした。  そういう態度を僕が取ったときの彼女の反応は実に素直だ。下手に取り付く島を与えてしまっては彼女の思うつぼだが、普段多少強引なところがあるが基本的に押しに弱いというのが彼女である。それを理解している故の手段に多少は罪悪感を覚えないでもなかったが、 「……身体をシリコン製にしたいんです」 「却下」  それは返ってきた答えによってあっさりと消え去った。何を言い出すのかこの子は。 「今使っている粘土だってただじゃあないんだ。それなのにシリコン? そんなお金どこにあるのさ」  しかもシリコン製に造り替えるとなると、全身分の材料を用意しなければならない。粘土で形成するのだって未だにもたつく僕の腕では、作り終える頃にはめでたく老人となっていることだろう。  資金も技術も、この家のどこにも存在していないのだ。 「でもでも、そうしたらセックスだってできるし、ぶつけて身体を壊すこともなく……少なくなるじゃない」  何故最後を言い直したかはさておき、どうしてここまで性にこだわるというのか。欲求が溜まっているのは君のほうなのではないのかと勘ぐってしまう。ともあれ先立つものがないことだけは疑いようのない事実なのだし、早急に諦めてもらおう。 「そんな金があるならオナホを買う」 「玩具に負けた!?」  流石にショックだったのだろう、勢い余って僕の両手を離してしまった彼女は、そのまま額が割れんばかりの勢いでテーブルに突っ伏した。  よし、これでようやく食事を続けることができる。味噌汁が少し冷めてしまったがこの際は仕方ない。  我ながら絶妙だと感じる塩加減の魚を口に放り込む。焼き色からして実に食欲をそそるそれを口の中で充分に楽しんだあとの味噌汁はこれがまた格別だ。まさに黄金。これに勝る取り合わせはこの世のどこにだってありはしないだろう。わざわざ鮮魚市場と味噌の直販店をはしごした甲斐があったというものだ。 「玩具に……しかもオナホって……人型ですらないものに……」 「じゃあダッチワイフでいいや」  言うと、再びぐずぐずと気弱なうなり声を上げる彼女。食卓を彩る音楽としては最悪の部類に入るかも知れない。いくら何でもいじめすぎただろうか。自分一人だけ食事をしていることと合わせて申し訳なさを感じたが、僕はものを食べなければ死んでしまうし、等身大シリコンドール作成なんて余裕もないのだから、こればかりはどうしようもない。  魚の最後の一切れと味噌汁を飲み下して、そそくさと食器を片付ける。どうせ洗うのだからと全部重ねて台所の流し台に下ろし、そこに水をかけた。多少は汚れが浮いて洗い物がいくらか楽になるだろう。  さて。 「身体に感覚があるんなら、僕も考えたけどさ」  リビングに戻った僕は、未だに突っ伏したままの彼女の髪に静かに触れた。絹のような、そして真実絹糸でできた髪のなめらかすぎる指通りが、禁忌に手を伸ばしているようで、途端に背筋が寒くなる。この感じ、決して嫌いじゃあない。 「そうじゃないのにわざわざシリコン製にしても……そりゃ、形の上ではセックスしているようには見えるだろうけど」  彼女には身体の感覚というものが存在しない。極端な話、北極で裸のまま放置されようが百度の熱湯に落とされようが何も感じないのだ。そのことは彼女の言葉で知ることになったのだが、実際に片腕が取れようがどこが取れようが平然としている彼女を見ていれば、それが事実なのだろうということくらい察しはつく。そして、彼女がよく転ぶ理由もまた、そのことに起因していた。  簡単な話だ。感覚がないのだから歩きづらい。いや、歩きづらいなんてレベルの話ではないだろう。普通なら歩けないと、僕は思う。幸いというか何というか視覚情報と聴覚情報は残っているようなので、今自分の身体がどのくらい曲がっているかとか、どれほどの衝撃でぶつかったかとかはある程度判断はつく様子だが、それだけでは不感の身体を制御するには足りないだろう。そんな状態で歩こうとすれば、結果は目に見えている。  まあ、ここ半年で彼女は随分と歩くのが上手くなったとは思う。転ぶ頻度も、その勢いで身体を壊す回数も最初の頃とは比べるべくもない。そこまで至るのに彼女がどれだけの労力をかけたのか、推し量ることすら困難極まる。だが、それでも感覚が存在しないということがどれほどのことかだけは、どうしようもなく転んでしまう彼女の姿を見ていれば充分分かる。  だというのに、いやだからこそ。  一瞬肩をびくつかせた彼女が顔を上げようとした気配が伝わってきた。でも僕は手をどけない。今彼女の澄んだ目を向けられると、何というか、簡単に言ってしまえばものすごく恥ずかしい。間違いなく悶え死ぬ。 「僕だけ満足するなんて御免被るね。大体君は人間だ。他人の欲望のために身体を造り替えるなんて間違ってる」  言い終えて、見られていなくても充分に悶絶ものの科白だと思った。これは絶対に他の人には聞かせられない。もし知られたらと考えるだけで、断崖から紐なしバンジーを決めたくなる。  だがそれでも、それが僕の偽らざる本心であることに変わりはない。だから恥ずかしくても口にできるし、これからも自信を持って言い続けられる。きっと言う度に顔が熱くなるのだろうが構うものか。ここには彼女しかいないのだし、彼女以外のどんな人間にも聞かせるつもりはないのだから。 「……ありがとう」  彼女の声が聞こえる。相変わらず突っ伏したままで、それは僕が彼女の頭に手を置いているからだと気づいて、名残惜しく髪を一撫でしてから手を離した。  彼女の顔がもどかしいほどのろのろと持ち上がっていく。まずい、やはりまだ見られたくはない。とは言っても時すでに遅し、今更また彼女の頭を押さえつけるわけにもいかない。腹をくくって深呼吸するくらいしか、今僕にできることはなかった。  彼女が振り返る。いよいよ持って赤面ものだ。深呼吸なんて何の役にも立たなかった。まあ仕方ない。肩越しにこちらを見る彼女の微笑みにとても優しい色が見えて、改めて一息――  ……つこうとして、漏れたのはため息だった。それはもう盛大な、この上ないほどのため息だった。手で自分の顔を覆ったのは、決して赤ら顔を隠したかったわけではない。  何だろう、前言を全力で撤回したくなってきた。本当、加減が分からないのは仕方ないとしても、もう少し考慮することを覚えて欲しい。でなければそのうち参ってしまう。まさかしてわざとやっているわけではあるまいか。もしそうだとしたら、こんなに質の悪いことはない。 「え、どうしたの?」  彼女の問いはもっともだ。おそらくは僕も笑顔で彼女を迎え入れるものだと信じて疑っていなかったろうし、僕の側としてもそうして彼女に答えることができたらどんなに幸せなことだったろう。そんな些細な幸福さえ、今このとき、彼女の顔を見た瞬間に遙か彼方に全力疾走していってしまった。 「……鏡持ってくるからそのままじっとしていること。少しでも動いたら手足を全部逆につけるからね」  その鏡で見る僕の顔、その眉間には恐らく深い皺が刻まれていることだろう。今の彼女の顔のように。  まあ、彼女のは皺ではなくヒビ、だけど。