無銘図書館

人形と人形師・序

 人形病、そう言ってしまうことについてどうにも納得できないところがないではないが、正直なところ彼女に起こった、あるいは起こされた事態をどう言い表してよいものか、語彙力にさほど自信がない僕には思いつくことができない。そしておそらくは、世界中の誰も彼もが僕のように頭を抱えてうなり続けるくらいしか、自分にできることを見いだせないのではないだろうか。実際、彼女について知る数少ない人物、すなわち彼女の父親にしてもそうだったのだから。彼女の症状を医者に見せようとした彼は、結局その非常識さにそうすることもできずに、逆に自分が精神科とカウンセラーの世話になってしまっている。僕にしても少々ノイローゼ気味になったことは確かで、あと一歩のところで彼と同じ道を辿ることになるところだった。そうならずに済んだのは若さ故の適応力と、所詮は他人でしかない彼女のことを、自分が気をやるまで想えなかったからかも知れない。   序『人形師』   「ねぇ、手伝ってー」  隣の部屋から彼女の弱々しい声が聞こえてきて、僕はペンを置いて立ち上がった。まったく、何事だというのだろうか。まさかまた取れたのではあるまいな。いい加減もう少し丁寧に扱って欲しいのだが。毎日のようにここが取れたあれが取れたでは僕の身も心も持たないというのに。  ドアを開けると、蛍光灯のまぶしい光とともに、床に正しくぺたんといった感じでへたり込む彼女の姿が視界に飛び込んできた。彼女は袖がない、丈の長い白のワンピースを着ていて、顔にかかる髪を気にするようなそぶりもなく、左手に持ったそれを、ああでもないこうでもないと腹を空かせた熊のようにうなりながらいじっていた。  ――何というか、流石にもう露骨に驚くことはなくなったが、やはりこの光景は精神衛生上大変よろしくない。年頃の女の子が、いや、年頃の女の子でなくても、人間があんなものを持ってうなっている様は、精神的ダメージを与えるには充分すぎる。初めてこの事態に直面したときの衝撃たるや筆舌に尽くしがたく言語も絶するほどのもので、いや、今だって別に完全に平気というわけではないのだが、それでも僕は頭を抱えたくなる衝動をため息一つでこらえて、彼女のそばに歩み寄った。 「今度は右手? それも肩からって……何をやったのさ」  彼女の左手に握られているそれは紛う方なき人型の右腕だった。人間離れした、透き通り澄み渡った白い腕だった。ただ一点、それぞれの関節で妙な存在感を示す球体以外は、少なくとも見た目に関してはまったくもって人のそれと変わりがない。 「ちょっとぶつけただけだよ、本当だよ?」  水晶のごとき輝きをたたえた瞳が、おびえたように僕に向けられている。上目遣いで見つめられて多少の動揺を感じたが、それは二度目のため息で押し殺した。 「ちょっとぶつけたくらいじゃあこうはならないでしょうが」  彼女の前に座り込んで右腕を奪い、他に損傷がないか確認する。少しばかり引きずったような痕があっただけで、特に目立った外傷はなさそうだ。これなら軽くヤスリをかけておけばいいだろう。問題はテンションゴムだが、果たして買い置きがあっただろうか。ストックが切れそうだからと次回の買い物リストに書き記したのはいつのことだったか。 「もう何回言ったか分からないけど、こんな調子じゃあそのうちヤスリのかけすぎで身体が無くなるよ? パーツの交換だってただじゃあないんだし」  言っておくが、僕は人形師ではない。それどころか人形に触れたことだってなかった。プラモデルならいくらか作ったことはあるけど、それだけだ。だから本来なら、テンションゴムだの何だのは知らずに生きていくはずだったのだが―― 「ごめん……次はもっと気をつけるね」 「まあ、もうあきらめてるから別にいいけどさ」  途端にふくれっ面を作った彼女を見て、そんなところばかり器用になられても困るんだがとまたため息が漏れた。こんな短時間に連続してため息をつくのにも、二年も経てば流石に慣れてしまっていて、こんな現実に順応してしまっている自分が憎らしかった。とはいえ、連日こんなことが繰り返されていては誰だって慣れざるを得ないだろう。  例えば、小さな段差に躓いて転んだ拍子に足首から先が外れたとか。  例えば、寝ぼけてベッドから落ちて上半身と下半身が見事に分離したとか。このことは割と最近のことだが、あのときは相当のめまいを覚えたものだ。雪国における電車事故の都市伝説を真っ先に思い出したことは、今でも彼女には秘密である。 「とにかく、ゴムを探してくるから君はそこから動かないこと。分かった?」  言って返事を待たず、外れてしまった彼女の右腕を持って部屋に引き返した。  そう、これは彼女の右腕だ。誰がどう否定したところでその事実は変わらない。確かに見れば見るほど球体関節人形の右腕だが、それは彼女自身が人形の身体である以上何ら不思議なことではない。  彼女は人形なのだ。球体関節を持ち、目は比喩ではなく水晶でできていて、肌に触れても返ってくるのは粘土の堅くて冷たい感触だけ。今触れている右腕だって例外ではない。どういうわけか、ころころと表情が変化する顔にしたって、触ってみれば同じ感触が得られる。  それでも、僕は彼女を人間だと思っている。どんなに身体がバラバラになっても何事もないように動くし、食事どころか水分を取ることもない。それでも彼女は人間だ。誰がどんなに否定してもこれだけは譲るわけにはいかない。だって、彼女は元々は人間の身体だったのだから。  二年前まで、彼女は僕らと同じように食事を摂っていた。彼女の好物はハンバーグで、中でもチーズハンバーグは群を抜いて大好物だった。ある時期を境に僕の前でそれらを食べることはなくなったが、それでも彼女の好物がずっと変わっていないことは知っている。  それが今では、何を食べても何の味も感じることができないのだという。  それ以前に、咀嚼したものを飲み込む喉が存在せず、当然、消化と栄養吸収のための内臓も存在しない。要は食事が出来ないのである。それがどれだけの苦痛か、あの頃の経験から多少なりとも知っている僕は、彼女の心が悲鳴を上げる声が聞こえるような気がして耳をふさぎたくなる。そして、それすらも彼女が抱える苦しみの一端でしかないのだから、僕には最早理解の範疇を超えてしまっていた。  一方の彼女自身は実にあっけらかんとしたものだ。身体の変容を告げられたときもあまりにあっさりと言われたものだから状況の整理に若干の苦労を要したし、僕が彼女の様子を見る度に心を痛めている傍らで、今まで通りテレビを見ながらカラカラと笑ったりしているのだから、彼女の本心はいまいち分からない。まあ、内心でどう思っていようとも僕の態度は変わることはないのだからいいといえばいいのだが。今まで通り彼女のパーツが外れる度、こうして文句を言いながら修理をする。多くにとっての非日常は、今や僕にとっては日常と呼べるものになってしまっていた。  彼女専用の人形師――今の僕の立場は、多分そんな感じだ。